灰の上の道
道は、斜面を縫うように上っていった。
前を行く背中は、一度も迷わなかった。雨水が道の真ん中を流れているところでは、脇の草の上へ足を移す。木の根が張り出したところでは、根の上を踏まずにまたぐ。ラーメルトが一歩ずつ確かめて置く足を、相手は見もせずに置いていた。
この人にとっては、毎日通る道なのだろう。ラーメルトには、どこへ続くのかも分からない道だった。
歩きながら、数えた。百を過ぎたあたりで、道の脇の幹に、刃物で削った白い跡があるのに気づいた。少し先の幹にも、同じ跡がある。目印だ。自分が積んだ三つの石と、同じ役目をしている。
途中で、相手が足を止めた。
道の脇に、割った薪が積んであった。上に掛けてあった樹皮が雨で半分ずれている。相手は荷を下ろさずに片手で樹皮を引き戻し、端に石を載せた。それから、三人の方を見た。
距離が、十歩から七歩ほどに縮まっていた。
「そこ、すべる」
相手が、道の先の濡れた岩を指した。
短い言葉なら、ラーメルトにも分かった。頷くと、相手は岩の脇の土を踏んで先へ進んだ。フルメアがその足の置き場所を見て、エレシアを同じところへ導く。エレシアの足が岩の手前で止まりかけ、フルメアの肩に掛かる重みが増した。
ラーメルトは反対側へ回り、エレシアの肘を支えた。
「あと少しです」
エレシアは返事をしなかった。ただ、足を前へ出した。
小屋は、木々の切れ目に建っていた。
板を打ちつけた壁に、樹皮で葺いた屋根。人が四、五人入れば一杯になるほどの広さだった。三百十二歩。ラーメルトはその数を、二十二と、六十と一緒に覚えた。
相手が先に入り、荷を壁際へ下ろした。中央の床が四角く切られ、石で囲った炉がある。相手は炉の灰をかき分け、乾いた細い枝を折って組んだ。腰の袋から取り出した道具を打ち合わせると、火花が散り、やがて小さな火が立った。
「座れ」
相手は炉の向こう側、戸口に近い方へ腰を下ろした。三人を見ながら、戸口から離れない位置だった。
ラーメルトはエレシアを炉の近くへ座らせ、外套を外して絞り、炉の脇の梁に掛けた。湯気が立ちのぼる。相手が、壁に掛けてあった粗い布を一枚、黙って放ってよこした。乾いていた。ラーメルトはそれを受け取り、エレシアの肩に掛けた。
「ありがとうございます」
相手は小さく顎を引いただけで、何も言わなかった。
フルメアはエレシアの背をさすり、濡れた髪を手で絞ってやっていた。その手が、細かく震えている。
「フルメア。あなたも座ってください」
「私はいいわ。エレシアの方が――」
「あなたの手も、さっきから震えています」
フルメアは自分の手を見た。それから、少しだけ口を尖らせた。
「……あなたって、そういうところだけは目ざといのよね」
それでも、炉の前に腰を下ろした。ラーメルトがその隣に座ると、フルメアは両手を火にかざし、やがてラーメルトの肩へ頭を預けた。濡れた髪が、首筋に冷たかった。
エレシアは布にくるまったまま、火を見ていた。頬に、ほんの少し色が戻っている。
相手が、炉の火越しにこちらを見た。
「名前」
問いだと分かるまで、少しかかった。
「ラーメルトと申します」
「……もうします」
相手は、また古いものを聞いたような顔をした。フルメアが体を起こす。
「フルメアよ」
相手の目が、エレシアに移った。
エレシアは布の端を握った。唇が一度開いて、閉じる。
「……エレシア」
それだけだった。相手は三つの名前を、口の中で一度ずつ転がした。
「そちらのお名前は」
ラーメルトが尋ねると、相手は首を横に振った。
「こっちのは、いい」
断ったのか、通じなかったのか。たぶん、前の方だった。相手の手は、膝の脇に置いた荷の紐から離れていなかった。
火が落ち着いたころ、ラーメルトは訊いた。
「この辺りに、人の住む村はありますか」
相手は眉を寄せた。「むら」とだけ繰り返し、首を傾げる。
「ひと、いるとこ。たくさん」
エレシアが、火を見たまま言った。
相手の顔が、ああ、というふうに動いた。炉の脇から燃え残りの枝を一本取り、灰の上に線を引く。一本の線が、炉の縁から斜めに下りていく。その途中に、小さな四角を一つ。ここだ、というように、相手は四角を枝の先で叩いた。線はさらに下り、その先に四角がいくつも描かれた。
「下の、里」
ラーメルトは、灰の上の線を見つめた。
言葉より、ずっと早く分かった。道。小屋。下りの道を辿った先に、家の集まり。地図だった。どの土地の人が描いても、地図は地図の形をしている。
「どれほどの道のりでしょう」
相手は首を傾げた。ラーメルトはエレシアを見かけて、やめた。代わりに、灰の線を指でたどり、それから戸口の外の空を指した。
相手は少し考えて、手のひらを上に向け、低いところから高いところへ、ゆっくり弧を描いた。日が昇って、天頂へ届くまで。
「明るいうちに出りゃ、日のあるうちに着く」
拾えたのは、「明るいうち」と「日のあるうち」だった。それで足りた。
相手は枝を炉へ放り込み、小屋の壁を叩いた。
「ここは、仕事の小屋だ。ずっとは、いられねえ」
それも、分かった。
ラーメルトは、灰の上の地図を目に焼きつけた。フルメアが、こちらを見た。
「行くのね、その里に」
「はい。泊まる場所と、この土地のことを知る足がかりが要ります。帰る道を探すにも、ここに座っていては何も分かりません」
「ただし、エレシアがもう少し温まってから。それと、雨がやんでから。それが条件」
「異論はありません」
フルメアは頷き、エレシアの方を向いた。訊く前に、エレシアが口を開いた。
「……わたしも、行く」
短い声だった。誰かに言わされた声ではなかった。
フルメアはしばらくエレシアを見て、それから、ええ、とだけ答えた。
戸口の外は、もう暗くなり始めていた。雨の音は、屋根の樹皮を細かく叩き続けている。
相手は戸口の脇に座ったまま、目を閉じなかった。ラーメルトも、炉の火を絶やさない位置に座り直した。
「交代で起きていましょう。最初は私が」
「途中で起こしてよ。絶対に」
フルメアはそう言って、ラーメルトの肩に頭を戻した。
灰の上の線は、炉の熱で少しずつ崩れていく。ラーメルトはもう一度だけ、それを目でなぞった。三百十二歩と、六十歩と、二十二歩。その先に、柱がある。
そして、そのずっと上に、帰る場所がある。




