古い言葉
十一まで数えたところで、雷が鳴った。
次の稲光では、十五を越えた。音も、岩に響くほどではなくなっている。岩の縁から落ちる筋が細くなり、窪みの前の地面を叩く音がまばらになった。
「離れていきます」
ラーメルトが言うと、フルメアはもう膝を立てていた。
「なら、先に柱ね」
二人で窪みを出た。柱までは二十二歩。濡れた斜面は思ったより滑らず、草の根が足を受け止めた。
フルメアは柱の正面に立ち、手を後ろで組んだまま顔を近づけた。触れない、と言ったとおりだった。ラーメルトはその背後に立ち、森の側を見ていた。
「……だめ。線が細かすぎるし、雨で縁がにじんで見える。今は読めないわ」
フルメアは焦げた筋の位置だけを目で追ってから、身を起こした。
「でも、ここに立てば正面が分かる。それは覚えた」
岩陰へ戻ると、エレシアは外套の合わせ目を握ったまま、窪みの入口まで出てきていた。誰かに言われる前に、自分で岩に手をついて立っている。
「行ける?」
フルメアが訊くと、エレシアは小さく頷いた。
三人で、積んだ石の前から斜面を横へ歩いた。
ラーメルトが先に立ち、足を置く場所を一つずつ確かめる。振り返れば、柱の頂が木々の上に見えた。それが見えなくならないところまで、と決めていた。
フルメアはエレシアの腕を自分の肩に回し、ラーメルトの踏んだ跡から少し外れた、草の多い方を選んだ。
「そっちの方が、足が沈まない」
フルメアがそう言って、エレシアの歩幅に合わせて半歩ずつ進む。ラーメルトは自分の足跡に目を落とし、ぬかるみに靴の形がくっきり残っているのを見た。言われたとおりだった。
六十歩ほど行ったところで、木々が途切れた。
踏み固められた土が、斜面を横切っていた。
幅は人が二人すれ違えるほど。雨水が真ん中を細く流れ、両脇の草は低く刈られている。倒木の一本が、道を塞がない向きに引きずってどけてあった。切り口はまだ白い。
誰かが、ここを使っている。それも、最近。
「……人が、いるのね」
フルメアが声を落とした。エレシアの体が、肩に回した腕の中で強張る。
ラーメルトは道の上り側と下り側を見比べた。どちらにも人影はない。けれど下り側の、道が曲がって見えなくなるあたりから、枝の揺れる音がした。
人が出てきた。
背に、枝を束ねた大きな荷を負っている。肩から上に雨よけの布をかぶり、その布の端から雫が落ちていた。曲がり角で雨を避けていたのか、道へ戻ってきたところらしい。
その人は三人を見て、足を止めた。
十歩ほどの距離だった。どちらも、それ以上近づかなかった。相手は荷の紐を握ったまま、片足を引いている。目が三人の顔から濡れた服へ、服から足元へ、すばやく動いた。
ラーメルトは両手を体の前に出し、掌を見せた。フルメアが、エレシアを自分の後ろへ半歩寄せる。
「驚かせて、申し訳ありません。私たちは、道に迷った者です。危害を加えるつもりはございません」
相手は答えなかった。眉を寄せ、ラーメルトの口元を見ている。言葉を聞いているというより、音を確かめているような目だった。
「……なんだ、その言い方」
低い声だった。
「ずいぶん古い言い方するな。年寄りが読む、昔の本みたいだ」
古い。
ラーメルトは、自分の言葉を振り返った。いつもどおりに話しただけだった。王都でも、旅の先でも、誰にも妙な顔をされたことはない。
「どっから来た。そっちの上にゃ、何もねえだろ」
早口だった。言葉の終わりが詰まり、続けて次の言葉が来る。ラーメルトに拾えたのは「どこから」と「何もない」だけだった。指さされたのは、柱のある斜面の方だった。
答えられることが、なかった。空から来た、と言っても、通じるかどうか以前の話だった。
ラーメルトが黙ると、相手の手が荷の紐をさらに強く握った。答えない者を、どう見るか。それは空の上でも変わらない。
「雨を凌げる場所を、しばらくお貸しいただけないでしょうか。連れが冷えておりまして」
「しのげ……? かし……?」
相手は首を振り、また半歩下がった。分からない言葉が増えるほど、距離が開いていく。
フルメアが口を開きかけ、閉じた。自分の言葉も同じように聞こえると、察したのだろう。代わりに、エレシアの肩に回した腕へ力を込めた。外套の下で、エレシアの体が震え続けているのが、ラーメルトの側からも見えた。
相手の目が、その震えに止まった。
「……雨」
エレシアが言った。
フルメアの後ろから、半分だけ顔を出している。声はかすれていた。
「やむまで。休むとこ、ない?」
相手の眉が、わずかに動いた。
「休むとこ」
「……さむい。この人たちも」
エレシアはそれだけ言って、口を閉じた。フルメアの袖を握る指が白くなっている。
相手は、エレシアを見て、それからラーメルトとフルメアを見た。紐を握っていた手が、少しだけ緩む。
「三人か」
「……うん」
短い返事だった。けれど、さっきまでの二人の言葉とは、相手の顔の動きが違った。
ラーメルトは、エレシアの横顔を見た。自分と同じ空から来たはずの人の言葉が、なぜこの人に届くのか。今は考える時ではなかった。フルメアも何か言いたげにエレシアを見たが、口にはしなかった。
「上に、仕事の小屋がある」
相手は道の上り側を顎で示した。
「火も焚ける。そこまでなら」
小屋。火。その二つは、ラーメルトにも分かった。相手は荷を背負い直し、道の先を指で示してから、指を三本立て、それを一本ずつ折ってみせた。歩く間を数えているのだろう。遠くはない。
ラーメルトはフルメアを見た。
見知らぬ人について、見知らぬ道を行く。相手が何者かも、小屋に誰がいるのかも分からない。けれど、エレシアの震えは止まらず、雨はまだ降っている。この道は柱のある斜面から近く、上り側へ行くなら、戻る方角も見失わずに済む。
「行きましょう。ただ、離れないでください」
「言われなくても」
フルメアは短く返し、エレシアを支え直した。
「ありがとうございます」
ラーメルトが頭を下げると、相手はまた眉を寄せた。それから、通じたかどうか分からない顔のまま背を向け、道を上り始めた。
十歩の距離は、縮まらなかった。相手は時々振り返り、三人がついてくるのを確かめる。三人も、相手の背と荷から目を離さなかった。
ラーメルトは歩きながら、数え始めた。道へ出てから、一つ、二つ。
帰り道を失わないように。




