稲光を数えて
岩の縁から、雨が細い筋になって落ちていた。
窪みの奥は濡れていなかった。けれど三人で身を寄せると、肩も膝も外へはみ出しそうになる。ラーメルトは自分の背を雨の側へ向けた。濡れた服が背中に張りつき、冷たさがじわりと染みてくる。
エレシアは二人のあいだで膝を抱えていた。肩に掛けた外套の端から、水が滴っている。その肩が、小刻みに震えていた。
フルメアがエレシアの手を取った。指先を両手で包み、すぐに眉を寄せる。
「冷たいわね。さっきまで握ってたのに」
包んだ手を、そのままこすり始めた。エレシアは手を引かなかった。こすられる自分の指を、黙って見ている。
ラーメルトは外套の裾をつまみ、絞った。水が岩を打つ。掛け直すと、エレシアの肩がわずかに縮んだ。
「……これ」
エレシアが、外套の襟に指をかけた。
「あなたの」
「濡れていますが、ないよりはましです」
「あなたも、濡れてる」
「私は、動いていれば温まります。あなたは今、そうはいかないでしょう」
言ってから、きつい言い方だったかと思った。エレシアは襟から指を離した。返そうとしていた手が、そのまま前の合わせ目を握る。
「……少しなら、歩ける」
小さな声だったが、本人の言葉だった。柱からここへ移るとき、彼女は一度膝を折りかけ、二人の腕のあいだで立ち上がった。少しなら、というのは、きっと正直な量なのだろう。
「では、その少しをどこで使うか、先に決めておきましょう」
フルメアが、こすっていた手を止めてこちらを見た。
「もう動くつもり?」
「いいえ。動く前に、です」
ラーメルトは窪みの縁から外を見た。
柱は、上りの斜面の先に立っている。焦げた筋は雨に濡れて黒く光り、もう湯気は上げていなかった。その向こうは木々で、幹のあいだに雨が白く煙っている。奥がどこまで続くのかは見えない。
ここまで歩いた数は、体が覚えていた。柱の脇から岩まで、下りながら二十二歩。片側にエレシアの重みがあったから、いつもの歩幅より短い。
大陸でなら、ここから歩幅を数え、星で確かめ、自分のいる場所を地図へ落としていく。今は雲が厚く、星は見えない。歩いた数を書き留めてくれるエノアも、隣にはいない。
ラーメルトは、二十二という数を口の中で繰り返した。覚えておくしかなかった。
稲光が、木々の上を白く撫でた。
ラーメルトは息を止め、数え始めた。一つ、二つ、三つ――。
七つ目で、雷が鳴った。
「何を数えてるの」
フルメアが訊いた。
「光ってから、鳴るまでです。音は光より遅れて届きます。間が短いほど、雷は近い」
「七つは、近いの?」
「遠くはありません。さっき柱に落ちたのと、同じ雲の下だと思います」
フルメアは窪みの外の空を見上げ、それから柱へ目を移した。
「なら、その数が長くなるまでは、あそこには寄れないわね」
「はい。高い木の下も同じです」
フルメアはエレシアの手を包み直した。目は、まだ柱に向いている。
「雷が離れたら、私、あの柱の刻みを近くで見たい。触らないで、見るだけ」
ラーメルトは彼女の横顔を見た。
石の部屋で、光の線の向きを読んだのはフルメアだった。満たす形ではない、ほどく形だ、と。同じ形の柱が、ここにも立っている。
「向こうの柱と同じ刻みかどうか、ですね」
「同じかどうかも、違うかどうかも。見なきゃ、何も言えないもの」
ラーメルトは頷いた。さっき柱へ上げかけた右手を、膝の上で握る。
「そのときは、私も行きます。あなたが刻みを見ているあいだ、周りを見ています」
「ええ。お願い」
フルメアの左手が、ふと自分の左腕をさすった。ラーメルトの目がそこへ向いたのに、彼女は気づいたらしい。
「平気よ。古い傷が、冷えると疼くだけ」
ラーメルトは、それ以上を訊かなかった。彼女の腕へ自分の肩を寄せると、フルメアは黙って体重を預けてきた。
エレシアが、小さく咳をした。唇が白く乾いている。
ラーメルトは岩の縁へ手を伸ばした。落ちてくる筋を掌に受けると、冷たい水がすぐに溜まった。鼻を近づける。土と石の匂いしかしない。一口含み、飲み下した。妙な味はない。
「飲めます。ゆっくりなら」
もう一度溜めて、エレシアの前へ差し出した。
エレシアはラーメルトの掌を見た。それから、外套の中から自分の両手を出し、その下に揃えた。傾けた水を自分の手で受け、口へ運ぶ。
飲み込んで、息をついた。
「……冷たい」
「ええ」
フルメアも縁へ手を伸ばし、水を受けて飲んだ。もう一度溜めると、今度はラーメルトの口元へ持ってくる。
「あなたも。人の世話ばっかりしてないで」
ラーメルトは一瞬迷ってから、その手から飲んだ。水が喉を落ちていく。体の内側が、外と同じだけ冷えていたことに、そのとき初めて気づいた。
雨が続くあいだ、水はここで手に受けられる。
足りないのは、濡れずにいられる場所と、温まる手立てだった。それを探すなら、この岩を離れて森へ入ることになる。そのときも、柱とこの窪みを見失うわけにはいかない。
ラーメルトは窪みの入口へ膝を進め、足元の石を拾った。拳ほどの大きさのものを三つ、柱の見える側へ積む。森の中から振り返ったとき、この岩を見分ける印になる。
「目印?」
「戻ってくる場所を、決めておきたいので」
フルメアは積まれた石を見て、それから柱を見た。
「順番は、雷が離れるのを待つ。それから刻みを見る。そのあとで、この辺りを少しだけ、ね」
「はい。この岩と柱が見える範囲で」
エレシアが、外套の合わせ目を握ったまま顔を上げた。
「……その、少し」
言葉はそこで途切れた。自分の歩ける量として、さっき彼女が口にした「少し」だった。
「そのときは、一緒に立ちましょう。無理なら、ここで待っていてください」
エレシアは答えなかった。外套の端を、もう一度握り直しただけだった。
稲光が、また雲の奥を白く透かした。
ラーメルトは数え始めた。一つ、二つ。
隣で、フルメアの唇も同じ数を刻んでいる。二人のあいだで、エレシアの唇も、かすかに動いていた。
三つ、四つ。
三人は黙ったまま、雷が鳴るのを待った。




