雲の下の雨
頬を叩くものがあった。
雨だった。
ラーメルトは、濡れた草の上に倒れていた。腕の中に、二人分の重みが残っている。
すぐそばで、フルメアが咳き込んだ。ラーメルトは片肘をつき、その顔をのぞいた。
「フルメア」
「……生きてる? 私たち」
「生きています」
答えた自分の声が震えていた。フルメアは濡れた髪の下で目を閉じ、長く息を吐いた。その手は、まだエレシアの手を握っている。
エレシアは二人のあいだで横たわっていた。目は閉じているが、胸は上下している。ラーメルトは自分の外套を外し、その肩にかけた。
体を起こして、周りを見た。
石の部屋ではなかった。天井も通路もない。雨に煙る木々が、どこまでも続いている。見たことのない葉の形だった。
振り返ると、柱が立っていた。
石の部屋で見たものと、同じ形の柱だった。ただ、ここでは屋根もなく、雨の中にじかに立っている。頂から地面まで、黒く焦げた筋が一本走っていた。雨粒がその筋に当たり、細い湯気を上げている。焦げた石の匂いが、雨の匂いに混じっていた。
遠くで、雷が低く鳴った。
ついさっき、この石に雷が落ちたのだ。ラーメルトには、そうとしか見えなかった。
息を吸うと、空気が重かった。
胸の奥まで、楽に入ってくる。耳の奥が、また詰まっていた。石の部屋で床が沈んだときよりも、ずっと深く。
大陸のどこを歩いても、空気はここまで濃くなかった。測ってきた高さのどれとも合わない。ずっと低い所にいる。けれど、低い土地なら大陸にもある。それだけでは、ここがどこかは言えなかった。
雲の奥で、稲光が走った。
垂れこめた雲が、一瞬、内側から白く透けた。その高みに、ひとつだけ光を通さない影があった。
ラーメルトは目を凝らした。雲は風に流れていく。影は流れなかった。
雨脚が弱まり、雲の一角がほつれた。灰色の切れ間の、そのずっと上に、黒いものが浮かんでいた。
山ではない。下に裾がない。ぎざぎざの底を見せたまま、どこにも支えられずに空の途中にあった。端は雲に呑まれて見えない。どれほど大きいのかも分からなかった。
「……あれ」
フルメアが、ラーメルトの袖を掴んだ。
ラーメルトは答えられなかった。
縁に立って、雲の下の大地を見下ろしたことはある。大陸が浮いていると知り、その沈みを測ろうとしてきた。けれど、自分たちの住む大地を、外から見上げたことは一度もなかった。
王都も、学院も、父の部屋も、四人で歩いた街道も、全部あの上にある。歩幅で測り、星で確かめてきた広さが、ここからは雲の切れ間にのぞく一つの岩でしかなかった。
あんなものの上で、皆が暮らしている。
「地上です」
声が掠れた。
「門を通ったのだと思います。信徒の人たちが通ろうとしていた、あの門を」
言ってから、ラーメルトは唇を結んだ。地上へ還りたいと望んでいた人々は、あの部屋に残っている。望んでもいなかった自分たちだけが、ここにいた。
フルメアは影から目を離さなかった。
「あそこに、エノアとレオンハイトがいるのね」
「はい」
最後に聞いたのは、エノアの声だった。二人は入口にいた。柱からは遠かった。それは確かに見ている。けれど、自分たちが光へ沈んだとき、足元はまだ落ち続けていた。
「……落ちては、いないのね」
「今は、浮いています。それも、まだずっと高い所に」
雲の切れ間にのぞいた影は、輪郭がかすむほど遠かった。稲光と、たまたまほつれた雲がなければ、見えなかっただろう。
縁から見下ろしたとき、雲の下の大地は霞の底に沈んでいた。下から見上げても、同じだけ遠いはずだ。ふだんなら、雲と霞に隠れて見えない高さなのだろう。
その影が、頭上にのしかかるほど近くはない。さっきの揺れで下がったのは、あの高さからすれば、わずかだったはずだ。
「どれだけ下がったかまでは、ここからでは測れません。でも、すぐに落ちてくる高さではありません」
フルメアの肩から、少しだけ力が抜けた。袖を握る手に、一度だけ力がこもる。
雲の切れ間が閉じていく。黒い影は、灰色の向こうへ沈むように見えなくなった。
ラーメルトは柱の前に立った。
この石が門なら、向こうへ戻る道もこの石のはずだ。右手が、石の面へ上がりかける。
その手首を、フルメアが掴んだ。
「待って」
振り向くと、フルメアがまっすぐこちらを見ていた。
「さっきのと同じことにならないって、言える?」
ラーメルトは手を見た。エレシアの掌も、こうして石へ向けられていた。門を開く力と、大地をほどく力。自分には、その違いが見分けられなかった。床が下がって初めて、別のものだと分かったのだ。
「……言えません」
「なら、今は触らないで」
ラーメルトは手を下ろした。フルメアの指が、手首から離れた。
背後で、小さな息の音がした。
エレシアが目を開けていた。雨を受けながら、焦点の合わない目で空を見ている。フルメアがすぐにそばへ膝をつき、背中を支えた。
「急に起きないで。ゆっくりでいいわ」
エレシアは支えられたまま、自分の右手を顔の前へ持ち上げた。指を曲げ、伸ばし、また曲げる。自分の手がそう動くのを、確かめるように見ていた。
「……あの人は」
「いないわ。ここには、私たちだけ」
エレシアの肩から、わずかに力が抜けた。
それから、もう一度自分の手を見た。
「わたしが……掴んだの?」
「ええ。あなたが掴んだの」
フルメアは、自分の指をエレシアの前で開いてみせた。
「痛いくらいだったわ」
エレシアは、その指を見つめた。唇が動き、また閉じる。しばらくして、雨音に紛れそうな声で言った。
「わからない。どこまでが、わたしだったのか」
フルメアは、すぐには答えなかった。
ヴォルトローネ様、お願いします。
台座の上で、滲んだ視界の向こうに聞いた声がある。あの夜、自分の血を流させた者たちが、その家名を呼んでいた。この人が、あのとき何をしていたのか。フルメアは知らない。知らないまま、今、この人の背を支えている。
手を握り返されたことは、本当だった。だからといって、その家名に結びついたすべてを、ここで飲み込めるわけではない。
「全部は、私にも分からないわ」
フルメアは言った。
「でも、最後に掴んだのはあなたよ。それは、私が知ってる」
エレシアは何も言わなかった。ただ、膝の上で右手を握った。今度は、誰の声もなかった。
雷が、さっきより近くで鳴った。
ラーメルトは空を見上げ、それから周りの木々を見た。雨を避けるなら、枝の張った大木の下がいい。けれど、たった今、雷の落ちた場所だ。高い木の下で、雷が過ぎるのを待つ気にはなれなかった。
柱の脇から少し下った所に、岩が張り出している場所があった。人が三人、身を寄せられるほどの窪みがある。低く、柱からも見える位置だった。
「あそこへ移りましょう。雷がやむまで」
フルメアが頷き、エレシアの腕を自分の肩へ回した。ラーメルトが反対側を支える。エレシアは一度膝を折りかけたが、二人の腕のあいだで立ち上がった。
岩の窪みへ入ると、顔を打っていた雨が途切れた。三人で身を寄せて座ると、濡れた服越しに互いの体温が伝わってくる。
ここからも、柱は見えた。雨の向こうで、焦げた筋だけが黒く光っている。
母は、雲の下から来た人だった。父からそう聞かされたのは、旅の途中のことだ。
その雲の下に、自分は今、座っている。母も、こういう濃い空気を吸って育ったのだろう。
ラーメルトは、頭上の雲を見た。さっきの影は、もう見えない。
それでも、あの上に帰る場所がある。エノアとレオンハイトがいる。二人が無事かどうかも、あの大地がこの先どうなるのかも、ここからは確かめられない。
「戻る道を、探します」
誰に言うでもなく、口にしていた。隣で、フルメアが肩を寄せてくる。
「探すのは、『私たち』でしょう」
ラーメルトは、少しだけ笑った。
「ええ。私たちで」
エレシアは二人のあいだで、黙って柱を見ていた。握った右手は、まだ開かれていなかった。
雨は、しばらくやみそうになかった。




