握り返した手
フルメアがエレシアの右手首を掴んだのは、ラーメルトがオルムスの前へ入ったのと同時だった。
細い腕なのに、動かなかった。肘を伸ばしたまま、掌を石の面へ向けている。指一本ぶんの隙間を渡った光が、文様を伝って床へ落ちていく。
付与の刻みなら、線の向きで何をさせたいかが分かる。この柱の線は、外へ外へと伸びていた。何かを満たす形ではない。どこかへつながっているものを、一本ずつほどく形だった。
「手を下ろして。こっちを見て」
紅い目が、フルメアへ動いた。確かにこちらを見ている。それでも腕は下りない。目と腕が、別の人のもののようだった。
左腕の古い傷が、急にうずいた。
台座に縛られ、自分の血が細い溝を流れていくのを見ていた夜。どれだけ身をよじっても体は動かず、事は他人の声だけで進んでいった。あのときの冷たさが、手首の内側に戻ってくる。
今、目の前の人も、自分の腕を自分で動かせずにいる。
「続けなさい、エレシア」
オルムスの声が、ラーメルトの肩越しに届いた。
ラーメルトに胸を押さえられながら、オルムスは体をひねった。押し返されるのではなく、横へ抜ける。伸びた手がエレシアの左肘を掴み、下りかけていた腕を押し上げた。
「離してください」
ラーメルトがその手首を取った。オルムスは離さない。二人の腕が、エレシアの肘の上で軋んだ。
フルメアは右の手首を引いた。動かない。これ以上強く引けば、肘か肩が先に壊れる。エレシアの喉から、かすれた息が漏れた。
床の下で、低い音が鳴り続けている。光の線は、もう壁の際を越えていた。
「その人の顔を見ろ!」
入口の方から、足音が駆け込んできた。信徒の話し手だった。レオンハイトの脇を抜けたのだろう。後ろに、扉の前で話していた兵も続いている。
信徒はオルムスの外套を背中から掴んだ。
「本人の意思を無視するなら、応じないと言ったはずだ」
兵がオルムスの腕に手をかけ、二人がかりで柱の脇へ引き剝がした。オルムスの指がエレシアの肘から外れる。壁に背を打ちつけられても、その目はまだ柱を見ていた。
ラーメルトが、すぐにエレシアの後ろへ回った。両肩に手を添え、体ごと後ろへ引こうとする。それでも腕は残った。オルムスの声がなくても、掌は石の方を向いたままだった。
「フルメア、腕が戻りません」
「分かってる!」
分かっている。けれど、どうすればいいのかは分からなかった。
フルメアは、手首を握ったままエレシアの顔をのぞいた。唇が震えている。何かを言おうとして、言えずにいる顔だった。
あの日、好きなものを尋ねたときも、この人は答えを探して黙っていた。答えは、まだ聞いていない。
「エレシア」
初めて、その名を呼んだ。
「あなたの好きなもの、まだ聞いてないわ。だから、こんな所で終わらせないで」
掌の先で、指が動いた。
石の方へ開いていた指が、ゆっくりと曲がる。手首が、フルメアの手の中で内へ返った。冷えた指先がフルメアの指を探り、そのまま、握った。
弱い力だった。それでも、確かに握り返していた。
「……いや」
息に紛れるほどの声だった。
「……いきたく、ない」
その声が、フルメアの腕に力を戻した。
連れていかれたくないと言った人が、今、自分から手を伸ばしている。それなら、引いていい。
「ラーメルト!」
「はい!」
フルメアは握られた手ごと腕を抱え込み、体重をかけて引いた。ラーメルトが肩を後ろへ引く。伸びきっていた肘が、今度は戻らずに折れた。
掌が、石の前から外れた。
光の線が途切れた。
次の瞬間、柱の文様が一斉に瞬いた。明るくなり、暗くなり、また明るくなる。床へ落ちていた光が、逆向きに柱へ駆け戻ってくる。
「まだ――」
オルムスの叫びは、床の轟きにかき消された。
足元が抜けた。
さっきの比ではなかった。体が浮く。三人の足が、そろって床から離れた。フルメアの肩がエレシアにぶつかり、エレシアの体が前へ流れる。ラーメルトの腕が二人の背へ回った。
目の前の石の面が、揺れた。
黒い石が、水面のように波打っていた。オルムスと信徒と兵は、柱の脇の壁際にいる。石の面の前にいたのは、三人だけだった。
「ラーメルト! フルメア!」
エノアの声だった。
振り向こうとしたときには、もう光の中にいた。握り返された手だけは、離さなかった。
◇
扉の内側から通路の先を見ていたエノアが、名を呼び終えたとき、柱の前には誰もいなかった。
波打っていた石の面が、縮むように平らへ戻っていく。手を伸ばしても届かない距離だった。床はまだ落ち続けている。浮いていた体が、次の瞬間、床へ叩きつけられた。
レオンハイトが、エノアごと壁へ身を寄せた。背中が石に当たる。床は二度、三度と跳ね、それから、ずしりと止まった。
天井から細かな砂が降った。通路の向こうで、誰かが咳き込んでいる。
「怪我は」
「ありません。……レオンハイト、今」
「見た」
短く答えて、レオンハイトはエノアの肩から手を離した。
「ここにいて」
レオンハイトが柱へ走った。正面の石に両手をつく。押しても、叩いても、黒い石は固いままだった。
その脇で、オルムスが床に手をつき、柱へ這い寄ろうとしていた。信徒と兵は、さっきの揺れで振り払われていた。
レオンハイトが、その前に立った。
「もう、触らせないよ」
声は静かだった。レオンハイトは膝をつき、柱へ伸びかけたオルムスの手首を床へ押さえた。兵が起き上がって腕を背へ回し、信徒が外套の帯を解いて差し出す。オルムスは抗わなかった。ただ、柱を見上げたまま、口を閉ざしていた。
エノアも柱を見た。
激しく瞬いていた文様の光が、細く落ち着いていく。床へ流れ出していた線はもうない。淡い光が根元から上へ、ゆっくりと文様を伝っていく。切れかけた糸を、柱が自分で結び直しているように見えた。
床の震えが、指先に届かなくなった。耳の奥の低い響きも引いていく。自分の息の音が、ようやく聞こえた。
大地は、落ちきらなかったのだ。
外へ出ると、谷の斜面のあちこちで岩が崩れていた。木が何本か傾き、繋がれていた馬が綱を切って駆け去っていく。扉の上の石が一つ欠け、入口の脇に転がっていた。外にいた兵と信徒は、どちらの側ということもなく、倒れた者を助け起こしていた。
揺れは、この谷だけのものではなかった。
王都では屋根の瓦が滑り落ち、街道沿いの村では壁が裂けた。積まれた荷が崩れ、立っていた人は地面へ投げ出された。大陸は一息に下がり、そして止まった。落ちたのは、そのわずかな高さだけだった。
崩れたものは、元へは戻らない。沈み始めている大地が、沈むのをやめたわけでもなかった。
エノアは石の部屋へ戻った。
レオンハイトが柱の前に立っていた。三人が消えた面を、黙って見ている。エノアはその隣に並んだ。
手元の紙は、落としていなかった。それでも、今は開く気になれなかった。何と書けばいいのか、分からない。
「……三人とも、手、つないでたよねー」
レオンハイトが言った。いつもの伸びた語尾が、少しだけ戻っていた。
エノアは、光の中へ沈む直前の三人を思い出した。フルメアの腕がエレシアを抱え、ラーメルトの腕が二人の背に回っていた。
「はい。離していませんでした」
それだけが、今の二人に確かめられることだった。
柱の光は、静かに灯り続けていた。三人を呑んだ面は、ただの黒い石に戻っていた。
第三章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「この大地は、沈み始めている」。その事実を知ったラーメルトたちは、測ることで、残された時を確かめようとしてきました。そして第三章の終わりに、大陸は一度、目に見える速さで下がりました。落ちきることはなかったものの、各地には傷が残っています。
空に残されたエノアとレオンハイト。光の向こうへ消えたラーメルト、フルメア、そしてエレシア。
次の第四章では、物語の舞台が移ります。
分かれた仲間は、ふたたび出会えるのか。エレシアが握り返した手は、何を意味するのか。
引き続き、ラーメルトたちの旅にお付き合いいただけましたら幸いです。




