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自分の足で

 女性の言葉のあと、最寄りの兵も信徒も動かなかった。エノアが紙から顔を上げ、レオンハイトは双方の間へ目を置いたままでいる。

 静けさを破ったのは、信徒たちの後ろからの声だった。


「扉は開いてるんだ。どうして通さない」


 話に応じていた信徒ではない。後ろの何人かが、遺跡の方へ顔を向けていた。

 ラーメルトもそちらを見た。黒い石積みの正面に、重い石の扉がある。それが内側へ開き、奥に暗い通路がのぞいていた。扉の前には兵が並んでいる。女性を囲む位置ではない。入口を塞ぐ位置だった。

 ここへ来てから、自分は向き合う人々と女性ばかりを見ていた。双方がにらみ合っていたのは、あの扉の手前だったのだ。


「あの奥には、何があるのですか」


 兵側の一人は、扉から目を離さずに答えた。


「我々が着いたときには、もう開いていた。中へ人を入れるわけにはいかない」


 誰が開けたのかは言わなかった。知らないのかもしれない。信徒側の話し手が、その先を継いだ。


「奥に門がある。私たちは、地上へ還りたいんだ」


 隣でフルメアが息を止めた。

 ラーメルトの耳にも、父の部屋で聞いた声が戻ってくる。お前の母は、この下の世界から来た。その下へ通じる門が、この扉の奥にあると信徒は言っている。


「門を開くには、七賢の血を引く者が力を流さなければならない。だから、あの人に頼みたかった」


 信徒は女性へ目をやり、それから四人へ向き直った。


「だが、本人が嫌だと言うなら連れてはいかない。さっき言ったとおりだ」


 兵は頷かなかった。けれど、言い返しもしなかった。

 ようやく、双方の言葉がつながった。信徒は門へ入りたい。そのために女性の力を求めている。兵は扉を通したくない。だから、信徒が女性へ近づくことを警戒していた。

 七賢の血。フルメアが女性を見た。ラーメルトも同じことを考えていた。この女性がヴォルトローネに連なる人だということは、二人とも知っている。父はその家も、七賢家の一つだと言っていた。


「そのとおりです。本人が行かなければ、意味がない」


 扉の奥から、別の声がした。

 通路の暗がりから、一人の男が歩み出た。外套の裾が石の粉で白い。扉の前の兵が身構えたが、男は兵を見なかった。四人を見ることもない。その目は、まっすぐ女性へ向いていた。


「エレシア・ヴォルトローネ。こちらへ」


「オルムス、中にいたのか」


 信徒の話し手が呼んだ。オルムスと呼ばれた男は、返事をしなかった。

 エレシア。ラーメルトには、初めて聞く名だった。家名の方は知っている。フルメアと酒場で口にし、父の部屋でもう一度聞いた名だ。

 女性の肩が小さく揺れた。

 前で重ねていた手が、ほどけた。顔はまだフルメアの方を向いている。それなのに、足が扉へ一歩出た。


「待って」


 フルメアが女性の行く先へ回り込んだ。


「考える時間がほしいって、言ったでしょう。今のは、あなたが決めたの?」


 女性の唇が開いた。声は出なかった。紅い目がフルメアを見て、何かを探すように揺れる。そのあいだにも、足はもう一歩、扉へ近づいた。

 ラーメルトは、その顔と足を見比べた。誰も手を引いていない。背を押してもいない。なのに、顔の向きと体の向きが合っていなかった。

 フルメアが女性の手首を取った。強く握ったわけではない。それでも、腕は止まらなかった。振り払うのでも、引き返すのでもない。同じ速さで扉へ向かおうとするだけだ。フルメアの方が、半歩引きずられた。


「離してあげてください」


 オルムスの声は穏やかだった。


「本人が、自分の足で歩いているのです。それを掴んで止めているのは、あなたの方では?」


 フルメアの指が、わずかに緩んだ。

 信徒の話し手が口を開きかけ、閉じた。本人の意思を無視して連れていくなら応じられない。そう言ったのは、この人だった。歩いていく女性を止める理由を、すぐには言葉にできずにいる。

 ラーメルトにも、言い切れるものはなかった。自分の足で歩いている。見えるものだけなら、そのとおりだ。けれど、どちらにも連れていかれたくないと言った声と、今の足取りがつながらない。


「彼女は、あなたの呼びかけに一言も返事をしていません」


 オルムスは、そこで初めてラーメルトを見た。


「では、あなた方には答えましたか」


 その一言のあいだに、女性の手首がフルメアの手から抜けた。

 兵が腕を伸ばしかけ、女性に触れる手前で止めた。その間を、女性は通っていく。オルムスが先に立ち、二人は通路の暗がりへ入った。

 フルメアは、もう扉へ駆け出していた。

 ラーメルトは振り返った。信徒の何人かが女性の後を追おうとして、扉の前の兵とぶつかりかけている。レオンハイトはすでに、扉の脇まで来ていた。


「僕はここで止める。狭い所に皆で入ったら、潰れる」


 いつもの伸びた語尾が消えていた。レオンハイトは片腕でエノアを自分の後ろへ下げ、もう一方の手を押し寄せる人々へ向けた。エノアは紙を胸に押し当てたまま、ラーメルトを見た。


「中が見える所にいます。何かあったら、呼んでください」


 ラーメルトは頷き、扉をくぐった。


   ◇


 通路は短かった。冷えた空気が顔に触れ、外の声が背後へ遠のく。十歩ほどで、黒い石の部屋に出た。

 中央に柱が立っていた。人の背の何倍もある石で、表面には細かな文様が刻まれている。信徒の言う門は、これなのだろう。

 女性は柱の正面に立っていた。こちらに背を向け、石の面と向き合っている。オルムスはその左、柱の脇にいた。フルメアは二人から数歩のところで足を止めている。オルムスが片手を上げ、それ以上近づくなと示していた。


「上げなさい」


 女性の右腕が持ち上がった。掌が石の面へ向き、指先と石のあいだに指一本ほどの隙間を残して止まる。触れてはいない。

 文様に、淡い光が差した。

 ラーメルトにも、女性の掌から石へ魔力が渡っていくのが分かった。背後の通路で、誰かが「開くのか」と言った。信徒たちが望んでいたのは、きっとこれだ。

 だが、光は柱にとどまらなかった。

 文様を上へ満たしていくのではない。下へ流れ落ちていく。柱の根元から床の継ぎ目へ、継ぎ目から壁の際へ。細い光の線が、部屋の外へ向かって伸びていった。

 吸った息が、胸の途中で冷たくなった。肌の周りにあった魔素が、柱の方へ引かれていく。


「……あれ、満たす線じゃないわ」


 フルメアが、光の行方を目で追いながら言った。


「つながってるものを、ほどく形をしてる」


 その言葉に答えるように、足の裏が軽くなった。

 一瞬だった。床が、体ごと沈んだ。耳の奥が詰まり、唾を飲むと抜ける。

 この感覚を、ラーメルトは知っていた。高い峠から一息に下りたときの耳だ。足元の大地が、下がった。

 沈み始めている、と王は言った。ゆっくりと、だが確かに。今のは、ゆっくりではなかった。


「これは、門を開く力ではありません。床が下がっています」


 ラーメルトはオルムスへ向き直った。


「何をしているのですか」


 オルムスは答えず、女性の腕を見ていた。代わりに、通路の入口から声が上がった。レオンハイトの腕の脇から、信徒の話し手が身を乗り出していた。


「オルムス。門を開くんじゃなかったのか」


「開きますよ」


 声の調子は変わらなかった。


「ですが、門を通れるのは、ほんの数人でしょう。この大地ごと還れば、誰も置いていかずに済む」


 入口の声が途切れた。

 大地ごと還る。この大陸が、地上へ落ちるということだ。その上で暮らす人々ごと。

 柱から、また一筋の光が床へ落ちた。足元がかすかに鳴る。


「エレシアさん。手を下ろしてください」


 ラーメルトが呼ぶと、女性の肘がわずかに折れた。下りかけた腕は、すぐに伸び直した。顎が小さく震えている。


「そのまま」


 オルムスの一声で、指が石の方へ開いた。

 自分では下ろせないのだ。ラーメルトはそれを見て、心を決めた。考える時間がほしいと言った人の腕を、ここで誰かが掴むことになる。それでも、この腕を他人の声のままにしておくわけにはいかなかった。


「フルメア、彼女の手を。彼は私が」


「ええ!」


 フルメアが女性の右へ回り込む。オルムスの体がそちらへ向いた。ラーメルトは床を蹴り、その間へ割って入った。

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