第九話 安心と違和感の間①
警察本部の休憩室。
自販機の低い駆動音だけが、静かに響いている。
「例の探偵とは、その後どうなの?」
向かいで、芹塚がストローを回しながら言う。
「別に」
ありすは短く返す。
「距離は近いけど」
一拍。
「キスされて、意識してるだけだから」
芹塚が、ふっと笑う。
「そこから進展ないのかー」
軽い調子。
ありすは何も返さない。
そのとき。
「いた」
背後から声。
一瞬で分かる。
(……なんで)
振り向く。
千翠が立っている。
「ありす」
「……なんでここに!」
思わず強くなる。
芹塚が目を瞬かせる。
「……どなた?」
一瞬、ありすと千翠の距離を見る。
(……近くない?)
視線が戻る。
「……例の探偵」
ありすが適当に返す。
すると芹塚は少しだけ目を見開いた。
「……あぁ初めまして。芹塚です」
すぐに立て直す。
「七沢がお世話になってます」
「あぁ、どうも」
千翠は芹塚へ軽く会釈する。
すぐに視線はありすへ戻る。
ありすが口を挟む。
「何でこんなとこいるの」
「呼ばれたから」
一拍。
「終わったから帰る」
「ついでに顔見ようと思って」
「……なんで」
「気になったから」
(……なんでここにいるって分かるの)
思考がよぎる。
千翠は、少しだけ首を傾ける。
「この時間帯、ここにいる確率が高い」
一拍。
「仕事の流れ的に」
淡々と。
ありすは小さく息を吐く。
「はぁ……」
「じゃあ、またね」
それだけ言って、千翠はそのまま出ていく。
足音が遠ざかる。
(……マジで何しに来たの)
静けさが戻る。
数秒。
沈黙。
次の瞬間。
「……なにあれ」
芹塚が吹き出す。
「めっちゃイケメンじゃん!」
「しかも何、下の名前で呼ばれてるし!」
「ていうかさ」
身を乗り出す。
「七沢にしか興味ない感じだったじゃん」
にやにやしている。
「あいつの行動、全部意味わかんないから」
ありすはそっけなく返す。
「そんなことないでしょ」
即答。
「興味なかったら、わざわざ探して会いに来ないって」
言い切る。
ありすは黙る。
一拍。
芹塚が、少しだけ声を落とす。
「あんたはどうなのよ」
視線がまっすぐ向く。
「本当に」
一拍。
「キスされたから、意識してるだけ?」
言葉が、止まる。
(……キスされたから)
(だから)
一瞬、繋げかけて——
(……それだけ?)
胸の奥に、引っかかる。
うまく言葉にならない。
でも。
否定も、できない。
「……わからない」
———
内勤フロアに戻ると、さっきまでの空気が嘘みたいに落ち着いていた。
キーボードの音と、紙をめくる音。
いつもの、変わらないリズム。
「七沢」
呼ばれる。
振り向くと、橘が立っていた。
「この資料、確認頼めるか」
「うん」
短く受け取る。
自然な流れ。
席に戻って並ぶ形になる。
少しして。
「ここ、数字ずれてる」
「……あぁ、ほんとだ」
会話が途切れない。
無理に繋げなくても続く。
(楽)
ありすは視線を落としたまま、淡々と手を動かす。
(次に何を言うか考えなくていい)
(気を遣わなくていい)
(勝手に近づいてこない)
一拍。
(普通だ)
沈黙も、苦じゃない。
そのまま、ふと思う。
「橘ってさ」
「ん?」
「彼女いないの?」
何の気なしに。
橘の手が一瞬だけ止まる。
「……いねぇよ」
短く返す。
(今さらかよ)
(お前が一番分かってない)
口には出さない。
「ふーん」
ありすは特に気にした様子もなく続ける。
「モテそうなのにね」
橘が少しだけ視線を逸らす。
(どういう意味だよ……)
言葉にはしない。
ありすは書類に目を落とす。
(会話、楽)
(変に考えなくていい)
(普通だ)
一拍。
(……なのに)
ほんの少しだけ、引っかかる。
理由は、分からない。
でも。
消えない。
(橘みたいな人だったら、楽なのにな)
(安心できる)
(何も考えなくていい)
(その方が、ずっと楽)
でも。
そう思った瞬間。
頭のどこかが、小さく否定した。
(……なのに)
(なんで浮かぶのは)
(あいつなんだろう)
理由は、まだ分からない。
そのまま、ペンを動かす。
仕事は進んでいく。
何も問題はないはずなのに。
どこかだけが、少しずれている気がした。




