第十話 安心と違和感の間②
現場を出たあと。
規制線は外されて、残っているのは後処理だけだった。
「……今回も助けられたな」
橘が小さく言う。
「……うん」
ありすは短く返す。
視線は、少し先。
そこにいる。
神谷千翠。
少し離れた場所で現場を眺めていた。
もう事件は終わっている。
それでも、なぜか帰ろうとしない。
(……帰らないんだ)
いつも通り。
それなのに。
今日は、少しだけ違う。
(……この前の)
胸の奥に、引っかかっている。
理由は、はっきりしない。
でも。
そのままにしておけない気がする。
気づけば、足が動いていた。
呼び止める理由なんてない。
それでも、歩いていた。
一歩。
また一歩。
(……なんで)
自分で分からないまま、距離が縮まる。
橘は何も言わない。
ただ、少しだけ視線を寄越す。
ありすはそのまま、千翠の前で止まる。
「……ねぇ」
声をかけたあとで、少しだけ遅れる。
(……なんで話しかけた)
自分でも分からない。
千翠が顔を上げる。
「なに」
いつも通り。
でも。
視線はちゃんと、ありすに向いている。
ありすは一瞬、言葉を探す。
でも。
何も浮かばない。
「……いや」
小さく出る。
「……なんでもない」
一歩、下がろうとする。
でも。
「ありす」
呼ばれる。
動きが止まる。
千翠は少しだけ首を傾ける。
「来たね」
一拍。
「今日は、自分から」
淡々と。
(……それ)
言われて、はっきりする。
逃げ場がなくなる。
「……たまたま」
反射で返す。
千翠は少しだけ目を細める。
「ふーん」
短く。
でも、視線は外さない。
一瞬、沈黙。
距離はそのまま。
ありすは視線を逸らす。
(……近い)
さっきまで気にならなかったはずなのに。
今は、少しだけ違う。
千翠はそのまま、ありすを見る。
少しだけ観察するみたいに。
「何しに来たの」
静かに聞く。
問いというより、確かめるように。
ありすは言葉に詰まる。
(何しに)
考えてなかった。
来た理由。
ちゃんとした答え。
どっちもない。
「……分かんない」
小さく出る。
千翠は一瞬だけ動きを止める。
それから、わずかに息を吐く。
「そっか」
千翠は少し考えてから。
「たしかに」
「考えて来た感じじゃなかった」
一拍。
「ありすらしくないね」
すぐには引かない。
そのまま、ほんの少しだけ近づく。
さっきより、わずかに距離が詰まる。
ありすの呼吸が、わずかに乱れる。
千翠はそれを見て、少しだけ目を細める。
「……下がらないんだ」
「……は?」
「前はすぐ下がった」
一拍。
「今日は違う」
視線がぶつかる。
「なんでだろうね」
「知らない」
即答。
でも少しだけ遅い。
千翠は小さく息を吐く。
「うん」
「俺もまだ分かってない」
千翠は少しだけ目を細める。
そしてそのまま何もなったかのように。
「じゃあ、またね」
あっさりと。
そのまま背を向ける。
足音が遠ざかる。
残される。
ありすはその場に立ったまま、動けない。
(……何今の)
(なんで行ったの)
(なんで下がらなかったの)
答えが出ない。
でも。
さっきより、はっきりしている。
(……自分から行った)
その事実だけが、残る。
橘が横に来る。
何も聞かない。
ただ、隣に立つ。
「……帰るか」
静かな声。
「うん」
歩き出す。
並ぶ。
いつも通りの距離。
安心するはずの距離。
なのに。
(……さっきの方が)
(落ち着かなかったはずなのに)
思考が止まる。
すぐに打ち消す。
(違う)
でも。
その“違う”は、少しだけ弱い。




