第十一話 観測誤差①
サイレンが、夕方の路地に反響する。
「その角、右」
ありすが短く言う。
それに合わせて橘がハンドルを切る。
前方。
黒いバイク。
狭い路地を抜けて——
少し開けたスペースに出る。
車が二、三台ほど止められる程度の空間。
(逃げ場、ない)
橘はアクセルを踏む。
距離を詰める。
「止まりなさい!」
ありすは車内から拡声器で声を張る。
エンジン音にぶつかる。
それでも届く距離。
バイクが減速する。
前は壁。
左右も抜けられない。
(追い込んだ)
ブレーキ。
パトカーが止まる。
「行く」
短く言う。
ドアを開ける。
先に降りる。
橘も続く。
夜の空気。
湿っている。
視界は、バイクだけ。
距離、数メートル。
「エンジン切りなさい」
まっすぐ言う。
男の肩が、わずかに動く。
ヘルメット越しの視線。
こっちを見ている。
(……反応)
次の瞬間。
エンジンが唸る。
(来る)
ハンドルが切られる。
逃げる方向じゃない。
一直線。
——ありす。
距離がない。
避けきれない。
「——七沢!」
橘の声。
一歩、踏み込む音。
間に入るには足りない。
そのまま突っ込んでくる。
ライトが近い。
体が強張る。
その瞬間。
腕を引かれる。
強く、横に。
バランスが崩れる。
足がもつれる。
引かれるまま、体が流れる。
そのまま倒れ込む。
橘の方へ。
押し倒す形で、重なる。
下に橘。
上にありす。
一瞬、距離が完全に消える。
すぐ横を、バイクが抜ける。
風がかすめる。
エンジン音が、後ろへ流れる。
「止まれ!」
別の声。
無線が飛ぶ。
「南に抜けた!追え!」
現場が動く。
足音。
ノイズ。
ざわつき。
⸻
「……大丈夫か」
すぐ下から。
橘の声。
一瞬だけ、力が抜ける。
(……大丈夫)
「……平気」
短く返す。
少し遅れて、認識する。
(近い)
ありすはすぐに体を起こす。
橘も起き上がる。
軽く距離が戻る。
「怪我は」
「ない」
短い確認。
それ以上はない。
橘は一瞬だけこちらを見る。
それから視線を外す。
「……クソ」
小さく吐く。
無線に戻る。
⸻
パトカーの後部座席。
神谷千翠は、動かない。
ただ、前を見る。
フロントガラス越し。
さっきの一瞬。
(主導)
ありす。
(追い込み)
(制止)
全部、主導していた。
(対象になる理由)
理解できる。
(合理的)
問題ない。
その上で。
橘。
(介入)
(回避)
(接触)
判断は速い。
適切。
(成功)
全部、正しい。
整理できている。
(正しい)
なのに。
視線が止まる。
さっきの位置。
距離。
接触。
(……あの距離)
一瞬、思考が止まる。
すぐに補正する。
(必要だった)
(あの距離しかなかった)
(橘の判断は正しい)
何度整理しても。
結論は変わらない。
なのに。
あの瞬間だけ。
思考が止まった。
(……なんで)
橘の判断に問題はない。
ありすにも問題はない。
なら。
何に引っかかった?
(……分からない)
その一点だけが。
どうしても説明できなかった。




