第八話 都合のいい理由②
深夜二時過ぎ。
最初はなんてことない騒音事件だと思っていたが、
近くで起きた強盗事件の犯人が潜伏している可能性がある、と
生活安全課から急遽引き継いだ事件。
ありすは聞き込みを行っていた。
外廊下に、湿った空気が残っている。
「ここ数日、音がしてて……」
「まず、ドタドタ走るような音がしてました」
「部屋の中を移動してるみたいな感じで」
(室内の音)
ありすはメモを取る。
「それから?」
「次に、ガチャガチャする音がして……」
「ドアですか?」
「……なんか、金属を触ってるような音で。引き出しとか、そういうものを探してるみたいな」
(……物色する音)
「それと、壁を叩くような音もしてました」
「部屋の中から響いてる感じで……壁が鳴るみたいに」
「あと最後に、すごく大きくドンって響いて……」
声が少し下がる。
「そのあと静かになって」
「最後の大きな音、どんな感じでした?」
「……ドアを強く閉めたみたいな音でした」
「静かになった直後は?」
「また走る音がしてました」
「音はどの辺りから?」
通報者は少し迷いながら言う。
「上の階……402号室だと思います」
⸻
「402号室の住人は?」
ありすが部下に確認する。
「現在不在です。数日前から出張のようで」
(不在)
ありすは上を見る。
(じゃあ、さっきのは証言は——)
一瞬止まり、思考を切り直す。
⸻
「七沢」
橘が来る。
「どう見る」
「……まだ絞れない」
短く返す。
「音ってさ」
横から声。
神谷千翠。
(……また、いつの間に)
「正確に“どこから出たか”なんて、普通わからない」
「上から聞こえた、くらいしか分からない」
「……でも通報者は」
橘が言う。
「402って言ってる」
「“そう聞こえた”だけ」
千翠が軽く返す。
「部屋番号まで特定できるほど、音の方向って正確じゃない」
ありすはすぐには返さない。
(……そう聞こえた、だけ?)
さっきの証言がよぎる。
⸻
『上の階』
『402号室だと思います』
⸻
(……思います)
ありすが口を開く。
「廊下の反響もある」
「上の階からってだけで、“その部屋”って決めるのは早い」
(……決めてる)
(音じゃなくて)
(推測で)
「……前提が違う」
小さく、ありすが続ける。
「“402からしてる音”じゃなくて」
「“上から聞こえる音”を、402だと思ってただけかもしれない」
空気が一段静かになる。
(音の発生源じゃない)
(認識の問題)
⸻
「管理人によると」
「402号室付近で、騒音苦情は以前からあり」
「夜間に“鍵を確認するような音”がするという相談はあったらしい」
改めて管理人から話を聞いてきた橘が報告する。
「いつ頃?」
「ここ数日」
「その時間帯は?」
「いずれも夜間」
橘が資料を出す。
「さらに別件で」
「宅配ボックスが荒らされているという通報があった」
「時間は?」
「同じく夜間」
「被害を受けたのは?」
「……401号室の住人」
「以前からストーカー被害の相談が入ってた」
「内容は?」
「夜中にドアノブを何度も回される音がする」
「玄関前を歩き回る足音も」
一瞬、空気が変わる。
(走る音)
(金属音)
(壁を叩く音)
(最後の大きな音は)
(ドアを閉めた音?)
(……違う)
(閉めたんじゃない)
(開けようとしたんだ)
(ドアノブを回して)
(それから、手前に引いた)
(その音が——)
「……402じゃない」
「音の発生源は部屋じゃない」
視線を落とす。
「401号室の前だ」
橘が息を吐く。
「……なるほどな」
無線を取る。
「401宅配ボックスと階段、確認しろ」
⸻
少しして。
「確保」
短い報告。
「宅配ボックス漁ってた男」
ありすは目を伏せる。
(やっぱり)
全部、繋がる。
⸻
夜の廊下は静かだった。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに引いている。
「やっぱり、さすがありすだね」
後ろから声。
振り向く。
千翠が立っている。
「……なに」
「ちゃんと繋げたね」
(……何それ)
少しだけ眉を寄せる。
「最初」
「“そこから聞こえてる”って前提で見てたでしょ」
一瞬、言葉が止まる。
(……それは)
否定しきれない。
「人は、一番都合のいいことを理由にする」
「でも」
視線を少し上げる。
「実際は、そうとは限らない」
その言葉だけ、少し残る。
静かになる。
(一番都合のいいこと……)
胸の奥に、小さく引っかかる。
完全には否定できないまま、残る。
(……じゃあ)
別の感情が、よぎる。
(この感情も)
一瞬、そう思いかけて。
すぐに否定する。
(違う)
でも。
その“違う”すら、少しだけ弱い。
そのまま千翠は、少しだけ近づく。
「ねぇ」
「なに」
「この前言ってたやつ」
「……どれ」
「今日は、いい?」
すぐに意味が掴めない。
「何が」
千翠は少しだけ首を傾ける。
「この前の距離」
一瞬。
理解が遅れる。
「……は?」
その間に、もう一歩。
距離が詰まる。
「無理」
即答して、一歩下がる。
でも。
後ろに下がった先で、すぐに壁に当たる。
「理由は?」
千翠は止まらない。
そのまま、また一歩近づく。
「意味わかんないから」
少し強く言う。
千翠は一瞬だけ止まる。
それから、視線を落とす。
「……わかんないのは、そうだね」
一拍。
また顔を上げる。
「でもさ」
距離は変わらない。
「ありす、心拍上がってる」
一瞬、止まる。
(なんで)
(分かるの)
呼吸が詰まる。
「……は?」
誤魔化すように出る。
千翠は少しだけ目を細める。
「上がってる」
断定。
千翠は一歩も引かない。
「……だから何」
「だから、分からない」
「嫌なのか、そうじゃないのか」
一瞬。
言葉が止まる。
「嫌なら、もっと早く離れると思った」
「でも、それだけじゃ判断できないから」
(何それ)
背中に壁。
前に千翠。
逃げ場がない。
「……違う」
やっと出す。
千翠はそこでようやく、ほんの少しだけ動きを止める。
でも距離は変えない。
「俺も上がってる」
一瞬、意味が遅れてくる。
「……は?」
千翠は表情を変えない。
「心拍」
淡々と。
言葉が詰まる。
(なにそれ)
「……だから何」
少し強めに返す。
千翠はそこで、ほんの少しだけ目を細める。
「でもさ」
「……嫌じゃない」
静かに落とす。
「あの距離、嫌じゃなかった」
呼吸が一瞬止まる。
沈黙。
距離はまだ近い。
「ありすは」
続ける。
「違う?」
一瞬。
思考が止まる。
答えが出ない。
でも、沈黙は許されない気がする。
「……違う」
短く言う。
千翠はそれを聞いても、特に表情を変えない。
「そっか」
それだけ。
そして、ようやく。
一歩だけ、距離が緩む。
ほんの少し。
「じゃあ」
軽く言う。
「また今度」
そのまま背を向ける。
足音が遠ざかる。
残されたまま、ありすは壁に背をつけたまま動けない。
(何今の)
(何を確認された?)
心拍だけが、少し遅れてうるさい。
(嫌じゃないって何)
(何の基準?)
夜は静かなまま。
でも、さっきまでとは少し違う静けさだった。




