第六十八話 少しずつ増えるもの②
仕事終わり。
ありすはスマホを開く。
少しだけ迷ってから、短く打つ。
『今日、家行っていい?』
送信。
数秒もしないうちに返事が来る。
『うん』
思わず笑う。
最近は、このやり取りが増えた。
理由なんてない。
ただ会いたいから。
それだけで十分になっていた。
⸻
夜。
千翠の部屋。
広いリビング。
相変わらず、家具は少ない。
ベッドとローテーブルだけという景色にも、もう見慣れてしまった。
ベッドに並んで座る。
静かな時間。
その中で、ありすがふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
千翠が視線を向ける。
「ソファ」
「いつ買いに行く?」
千翠はスマホを取り出し、予定を確認する。
画面を見つめたまま、小さく首を振った。
「今週は無理」
「来週も午後まで現場」
「……再来週なら、まだ予定あんまり入ってない」
ありすは苦笑する。
「忙しいね」
「うん」
「でもその日なら一時間空けられる」
さらっと言う。
「一時間でソファ買うの?」
「急げば」
ありすは吹き出した。
「そんな急いで買うものじゃないでしょ」
「じゃあ急ぐ」
「だから何で急ぐの」
二人で小さく笑った。
⸻
二週間後。
午後。
大型家具店。
休日の店内は人が多い。
ありすは楽しそうに店内を歩き回っていた。
「これかわいい」
「こっちもいいなぁ」
「この色好き」
一方で。
千翠は片っ端からソファに座っている。
「……これ柔らかい」
「これは少し硬い」
「こっちは沈む」
ありすが笑う。
「見た目は?」
「座り心地が先」
「そういうとこだよ」
結局。
ありすが選んだ、大きめのグレーのソファに決まった。
三人くらい座れそうなゆったりしたサイズ。
背もたれも高く、二人で並んで座っても余裕がある。
「これでいい?」
ありすが尋ねる。
千翠はソファを見て、小さく頷いた。
「ありすが好きなら」
「これがいい」
その返事に、ありすは少しだけ照れたように笑う。
⸻
会計を終えた、そのとき。
千翠のスマホが鳴った。
一瞬だけ画面を見る。
「……うん」
「分かった」
「今行く」
通話が終わる。
ありすもすぐ察した。
「仕事?」
「呼ばれた」
少しだけ残念そうに笑う。
「そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
千翠はポケットから一枚のカードキーを取り出した。
ありすへ差し出す。
「これ」
ありすは目を丸くする。
「え?」
「家、行ってていい」
カードキー。
初めて預けられる。
ありすはしばらく見つめたまま固まる。
「……いいの?」
「うん」
「ありすだから」
あまりにも自然に言われて。
胸の奥がじんわり熱くなる。
「……ありがと」
⸻
そのあと。
ありすは一人で買い物を続けた。
「せっかくだし……」
ラグ。
ブランケット。
クッション。
マグカップ。
電気ポット。
ティーバッグ。
茶葉。
マドラー。
コースター。
「……ちょっと買いすぎ?」
一瞬思う。
でも。
「まぁ、いっか」
笑ってしまう。
⸻
夕方。
カードキーをかざす。
電子音。
扉が開く。
もう何度も来ている部屋なのに。
今日は少しだけ特別だった。
ありすはラグを敷き。
ブランケットを畳み。
マグカップを洗う。
キッチンでは電気ポットでお湯を沸かす。
これまでほとんど使われていなかったキッチンに、
少しずつ生活の色が増えていく。
その後、指定した時間にソファが搬入される。
搬入されたソファにクッションを並べる。
ありすは紅茶を淹れて。
新しいソファへ腰を下ろす。
「……いい感じ」
一人、小さく笑った。
⸻
夜。
ソファに座ったまま、ありすはマグカップを両手で包んでいた。
紅茶の湯気がゆっくり立ち上る。
静かな部屋。
スマホが震える。
『着いた』
ありすは画面を見て、小さく笑う。
『今開ける』
立ち上がる。
玄関へ向かう。
ドアのロックを解除する音。
扉を開ける。
そこに、仕事帰りの千翠が立っていた。
一瞬。
視線が合う。
千翠の動きが、ほんのわずかに止まる。
いつもは誰もいないはずの部屋。
そこに、ありすがいる。
しかも、自分を迎えに出てきている。
その事実が、静かに胸に落ちる。
「おかえり」
ありすが自然に言う。
千翠は数秒遅れて、
「……ただいま」
と返す。
その声が、いつもより少しだけ柔らかい。
千翠はそのまま一歩入って。
足を止める。
静かに部屋を見渡した。
大きなソファ。
ラグ。
ブランケット。
クッション。
テーブルの上にはマグカップ。
キッチンには電気ポットと茶葉。
マドラーも、きれいに並んでいる。
以前とは、少し違う景色。
千翠はしばらく眺めていた。
「……変わった」
ぽつりと漏れる。
ありすは慌てる。
「ご、ごめん!」
「なんか……」
「いろいろ買っちゃって」
「勝手だったよね」
千翠は部屋を見回し。
もう一度、ありすを見る。
「……むしろ」
一拍。
「いい」
ありすが止まる。
千翠は静かに続けた。
「今まで必要なかった」
「でも」
部屋を見渡す。
「ありすがいるなら」
「全部必要」
一瞬。
ありすの顔が真っ赤になる。
「……そういうこと普通に言う」
小さく抗議する。
千翠は首を傾げた。
「本当だから」
即答。
ありすは思わず笑ってしまう。
「はいはい」
新しいマグカップを差し出した。
「紅茶できてるよ」
「ありがとう」
二人でソファへ座る。
ゆったりとした広さ。
それでも。
自然と距離は近くなる。
肩が触れる。
どちらも動かない。
千翠はマグカップを置き。
ありすを見る。
視線が合う。
数秒。
もう。
“触れていい?“とは聞かない。
ありすも何も言わない。
ただ少しだけ身体を預ける。
その答えだけで十分だった。
千翠は静かに腕を回す。
抱き寄せる。
ありすも当たり前のように寄りかかった。
(……こういうのも)
少しずつ。
当たり前になっていく。
窓の外には、街の灯り。
部屋には、新しいソファと、紅茶の香り。
少しずつ増えていく家具。
少しずつ増えていく日常。
そのどちらも、この広い部屋を、少しずつ二人の居場所へ変えていくのだった。




