第六話 閉じた距離は誰もわからない③
取調室。
男は落ち着いた様子で座っていた。
「七沢です」
向かいに座る。
「二週間前、被害者と会ってますね」
資料を閉じる。
「仕事の話です」
「仕事の話、ね」
ありすは視線を上げる。
「締切、また落としてたんだって?」
男の指先が、わずかに止まる。
「……」
「今回もフォローした」
「……仕事だったので」
「残業も」
「休日出勤も」
「あなたがやった」
沈黙。
「被害者、前にも無断欠勤してるよね」
「……ええ」
「急に来なくなって」
「連絡もつかなくなって」
「そのまま辞めた会社もあった」
一拍。
「だから今回も」
「また飛んだんだろうって思われた」
男は答えない。
「職場も」
「同僚も」
「誰もすぐには探さなかった」
「……」
ありすは静かに続ける。
「あなたも知ってたんじゃない?」
「すぐには見つからないって」
初めて、男が視線を上げる。
「……違います」
「何が違うの」
沈黙。
「すぐ見つかると思ってました」
ぽつりと落ちる。
「だって、人が死んだんですよ」
一拍。
「誰か来ると思った」
「管理会社も」
「会社の人間も」
「友達も」
少しだけ笑う。
「でも、誰も来なかった」
静かな部屋に声だけが残る。
「郵便物が溜まっても」
「電気がつかなくても」
「誰も」
男が目を伏せる。
「……あの人なら、またいなくなったんだろうって」
「みんな思ったんです」
沈黙。
「ドア、開かなかったんですよ」
「……」
「最初、引いても動かなくて」
「だから」
「これならバレないかもしれないって思った」
小さく笑う。
「鍵をかけたのと同じだと思ったんです」
ありすは静かに首を振る。
「違う」
一拍。
「開かなかっただけ」
「閉まってたわけじゃない」
男は何も言わない。
ありすは小さく息を吐く。
「みんな、それを勘違いした」
沈黙。
「……最初から気づいてたんですか」
「途中から」
短く返す。
「ドアを見て」
「あと」
一拍。
「あなたが、被害者がいなくなったことを全然驚いてなかったから」
男の肩が、わずかに落ちた。
「……そうですね」
小さな声。
「驚かなかったんじゃない」
「驚けなかったんです」
それだけ言って、男は目を閉じた。
⸻
取調室を出ると、廊下は少しだけ静かだった。
さっきまでの張り詰めた空気が、嘘みたいにほどけている。
「……終わり、か」
小さく息を吐く。
視線を上げる。
その瞬間。
少し離れたところに、神谷千翠が立っている。
こっちを見ている。
(……まだいる)
一瞬。
どき、と。
胸が鳴る。
(……なんで)
理由がわからないまま、心拍だけが上がる。
視線が、逸らせない。
(……なんなの)
一瞬だけ迷う。
でも。
そのまま歩み寄る。
「……ねえ」
声をかける。
千翠が、少しだけ首を傾ける。
「なに」
数秒。
言葉を選ぶ。
でも、結局そのまま出る。
「この前の、あれ……」
間。
「……あれ、何?」
キスのこと。
「……ああ」
(……軽いな)
少しだけ眉を寄せる。
「どういうつもり?」
真っ直ぐ見る。
逃がさないように。
千翠は少し考える。
本当に、少しだけ。
「反応を見たかった」
「……は?」
「予測とズレがあるか確認しただけ」
あまりにもそのまま。
一瞬、言葉が詰まる。
「……それで?」
「予測より面白かった」
「……なにそれ」
(意味わかんない)
視線を逸らしそうになって、止める。
「……で?」
「で?」
「それで終わり?」
「終わりって?」
噛み合わない。
少しだけ苛立つ。
「普通さ、そういうのって」
言いかけて、止まる。
(“そういうの”って何)
言葉が出てこない。
千翠は、そのまま見ている。
「……なんでもない」
逃げるみたいに言う。
その瞬間。
「それよりさ」
千翠が続ける。
一歩、距離が詰まる。
「さっき」
不意に。
「ちょっと心拍上がってたよね」
一瞬、止まる。
「……は?」
「ドアの前」
あっさり。
(なんで)
思考が追いつかない。
「してないけど」
反射的に否定する。
「呼吸が浅くなって、肩が少し上がった。目線も一度外れたし、返事まで早くなった」
「……」
「だから、たぶん心拍も上がってる」
即答。
逃げ場がない。
(なんで)
(そこまでわかるの)
一歩、下がる。
「……近い」
「そう?」
「そう」
視線を逸らす。
(意味わかんない)
でも。
(……ちょっと当たってるのがムカつく)
「でも」
千翠が続ける。
「俺も上がってた」
一瞬、止まる。
「……は?」
「さっき」
「ありすが近づいたとき」
あっさり。
理解が遅れる。
「ちょっと心拍上がった」
(なにそれ)
言葉が出ない。
「嫌ではなかった」
「……なんで」
「分からない」
一拍。
「でも、離れなくてもいいと思った」
「……」
「珍しい」
千翠が一歩近づく。
少しだけ、楽しそうに。
「……は?」
同じ言葉しか出ない。
「もう一度、確認してもいい?」
一歩、下がる。
「無理」
即答。
今度はちゃんと距離を取る。
「……そう」
少しだけ残念そうに。
でも、すぐに戻る。
「じゃあまた今度」
(またって何)
思わず言いそうになって、飲み込む。
「……意味わかんない」
小さく吐き捨てる。
千翠は、少しだけ目を細める。
「うん」
「俺も」
「……まだ定義できてない」
軽く言って。
そのまま、背を向ける。
足音が遠ざかる。
残される。
(……なんなの)
意味がわからない。
でも。
(……なんで)
胸の奥が、妙に落ち着かない。
それが何なのかは、まだ分からなかった。




