第五話 閉じた距離は誰もわからない②
現場は、思っていたよりも静かだった。
外廊下のマンション。
昨夜までの雨のせいか、床はまだわずかに湿っている。
風が抜けるたび、空気がゆるく動いた。
「被害者はこの部屋です」
部下の案内で足を止める。
玄関前。
ドアは閉まっている。
「第一発見者は隣人です。二週間ほど前から姿を見ていないと」
「二週間」
「最初は気にしていなかったそうですが、だんだん郵便物が溜まり始めて……」
一拍。
「それで、今朝になって少し臭いがする、と」
風が通る。
ほんのわずか、空気が動く。
「この廊下、風通しがいいので、強い臭いではなかったみたいですが」
視線がドアに向く。
「中は冷房がついたままだったそうです」
(……時間が経ってから出てきた)
条件が揃う。
「インターホンを鳴らしても応答がなくて、管理人を呼んでいます」
「開かなかった?」
「はい。隣人の話では、レバーは下がったけど開かなかったと」
その言葉だけが、少しだけ引っかかる。
「管理人が開けています」
ドアレバーに触れる。
ゆっくり下げてドアを引く。
開く。
(……少し、重い)
ほんのわずか。
でも、引っかかる感触が残る。
そのまま室内へ入る。
⸻
リビング。
床に倒れている男。
「刺殺です。一撃が致命傷」
「争った形跡は?」
「ほとんどありません」
静かすぎる。
生活の気配だけが残っている。
「七沢」
橘の声。
「防犯カメラ確認した」
「エントランスと裏口、駐車場側も含めて出入りは全部拾ってる」
「どう?」
「死亡推定時刻から発見まで、外部の出入りは確認されてない」
「映ってるのは住人だけだ」
(外部の人間は出入りしてない)
(発見時鍵がかかっていた)
(じゃあ)
「……密室、か」
小さく、ありすが呟く。
外からは入れない。
中からは出られない。
なのに、人は死んでいる。
思考がそこに向いた瞬間。
「前提が一つ飛んでる」
(……また)
振り向かない。
(なんで毎回いるの)
「何が」
「“閉まっていた”って、誰が確認したの?」
一瞬、空気が止まる。
「……は?」
「“密室”って定義に引っ張られてる」
淡々と。
視線が、ドアに向く。
「でもそれ、本当に“閉まってた”の?」
言葉が、残る。
(……開かなかった)
一瞬、思考が止まる。
(閉まってた、じゃない)
視線がドアに向く。
「……さっきの管理人の話、もう一回」
部下が一瞬きょとんとする。
「どうやって開けた?」
「えっと……最初は普通に開けようとして」
一拍。
「レバーを下げて、引いたけど動かなくて——」
「そのあと」
被せる。
「何度かやってもダメで、“鍵がかかってると思った”って」
「そのあと」
「マスターキーを使って、もう一度確認してます」
「回った?」
「はい。ただ——」
少し迷う。
「やっぱり、すぐには開かなかったって」
空気が、わずかに変わる。
(……やっぱり)
「無理にやると壊れそうだったので、力は入れてないそうです」
視線がドアに戻る。
(レバーは下がる)
(鍵は回る)
(でも動かない)
(外廊下)
(昨日の雨)
(二週間、未開閉)
(室内は冷房)
断片が、一気に繋がる。
(張り付いてる)
一歩。
(最初だけ、動かない)
口が、先に動く。
「……鍵じゃない」
橘が振り向く。
「は?」
「閉まってたんじゃなくて」
一拍。
「開かなかっただけだ」
ドアを指す。
「湿気でパッキンが張り付いてた。しかも二週間、開けてない」
「……」
「レバーは下がる。でも最初の一動きが出ない」
一瞬の沈黙。
「開かない理由を、一個に決めてた」
一拍。
「鍵のせいだって」
数秒の沈黙。
「……なるほどな。じゃあ密室じゃねえな」
「最初から違う」
ありすの視線が、カメラの映像へ向く。
「でも、防犯カメラには映ってないんだろ」
橘の声。
思考が、止まらない。
「……外には出てない」
小さく呟く。
「は?」
「カメラに映ってないなら」
一拍。
「この建物の外には出てない」
視線を上げる。
「でも、部屋には入ってる」
矛盾をそのまま置く。
「じゃあ」
一歩。
「どこにいる?」
短い沈黙。
「……中、か」
橘が低く言う。
「うん」
頷く。
「このマンションの中にいる」
一拍。
「被害者の部屋に出入りできる距離にいて」
「カメラに映っても変じゃない人間」
視線がわずかに動く。
「限られる」
言葉が、落ちる。
「……住人か」
橘が吐き出す。
「それか、内部の人間」
短く付け足す。
空気が変わる。
現場の意味が、書き換わる。
その横で。
「……いいね」
小さく、声。
振り向く。
千翠が、少しだけ目を細めている。
「ちゃんと辿り着くんだね」
(……何それ)
でも。
少しだけ、息が楽になる。
「橘」
「同時間帯に外出してない住人、洗える?」
「やる」
現場が動き出す。
今度は、迷いなく。
⸻
「やっぱり気づくんだ」
すぐ近く。
「……何それ」
振り向く。
千翠が、少しだけ目を細めている。
「思ったよりちゃんと見てる」
距離が、近い。
「……近いんだけど」
「そう?」
「そう」
一歩だけ下がる。
「話しにくいんだけど」
「でもこの距離の方が、よく見える」
「何が」
「反応」
「……何の」
「ありすの」
一瞬、言葉が詰まる。
(……やめてほしい)
言えば、多分、離れる。
なのに。
なぜか、それを言う気にはなれなかった。
「……仕事の話してるんだけど」
「してる。観察もその一部だから」
軽い返事。
でも。
視線は、逸れない。
(ほんと、意味わかんない)




