第五十九話 好きの形②
マンション。
エレベーター。
二人きり。
静かな空間。
手は。
部屋に入る前に、自然と離した。
扉が開く。
玄関。
「どうぞ」
三度目。
ありすは靴を脱ぐ。
部屋の中に入る。
千翠が後ろから続く。
扉が閉まる。
そこで。
二人とも、なんとなく立ったままになる。
ありすは、部屋の中を見回した。
リビング。
椅子はない。
ソファもない。
「……相変わらず何もないね」
「必要ないから」
即答。
ありすが小さく笑う。
「知ってる」
そこで。
急に静かになった。
「……」
「……」
意識してしまう。
(……何これ)
ありすは少しだけ視線を逸らす。
隣にいる千翠も、何も言わない。
ただ。
近くにいる。
それだけなのに。
妙に意識してしまう。
数秒。
沈黙。
そのあと。
低い声が落ちる。
「ありす」
名前を呼ばれる。
視線を向ける。
千翠はこちらへ体を向けていた。
「呼んで」
静かな声。
前と同じ。
でも。
今は誰もいない。
職場でもない。
ありすは少しだけ笑ってしまう。
「……また?」
「うん」
即答。
ありすは肩をすくめる。
「ほんと好きだね」
ぼそっと言う。
千翠は少しだけ考えて。
「嬉しいから」
短く返す。
その一言だけで。
ありすの頬が少し熱くなる。
「……千翠」
小さく呼ぶ。
その瞬間。
千翠の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
ゆっくり。
一歩だけ近付く。
逃げ道は残したまま。
「もう一回」
「……しつこい」
照れ笑い。
それでも。
「……千翠」
もう一度。
今度は少しだけ優しく。
呼ぶ。
千翠は小さく息を吐く。
距離を少しだけ詰める。
「……触れていい?」
ありすは少しだけ迷って。
小さく頷く。
「……うん」
千翠の腕が、ゆっくり伸びる。
触れる前に。
一瞬だけ止まる。
ありすは逃げない。
それを確認してから。
千翠が、そっと抱き寄せる。
強くはない。
でも。
今までより、少しだけ長い。
ありすも。
今日は抵抗しない。
そのまま、静かに身体を預ける。
胸の奥が。
じんわり熱くなる。
(……帰りたくなかった理由)
ようやく分かった。
(これだ)
(この時間が)
(欲しかったんだ)
ありすは千翠の服を、そっと握る。
小さく息を吸う。
「……千翠」
「うん」
今なら。
言ってもいい気がした。
「……好き」
静かな一言。
その瞬間。
千翠の思考が止まる。
(……“好き”)
抱き締める力が、ほんの少しだけ強くなる。
でも。
言葉の意味だけが整理できない。
数秒。
沈黙。
そのあと。
千翠が静かに言う。
「……それ」
「まだ分からない」
ありすが少しだけ笑う。
「うん」
責めない。
困った顔もしない。
ただ。
少しだけ体を離して。
千翠を見る。
「こういうこと」
小さく言って。
自分から距離を縮める。
額が触れそうなくらい近付く。
逃げない。
ただ。
優しく笑う。
「一緒にいたいって思ったり」
「会いたいって思ったり」
「触れたいって思ったり」
「名前呼ばれると嬉しかったり」
一拍。
「全部ひっくるめて」
「私は好きって呼んでる」
千翠は黙って聞いている。
その言葉を。
一つずつ。
整理していく。
(……全部)
どれも。
知っている感覚だった。
一緒にいると落ち着く。
離れると足りない。
会うと安心する。
名前を呼ばれると嬉しい。
触れられると。
もっと近付きたくなる。
全部。
もう知っている。
数秒。
そのまま。
ありすを見る。
「……そっか」
静かに。
本当に静かに言う。
「じゃあ」
少しだけ間。
「俺も、多分」
そこで止まる。
考える。
数秒。
「……まだ言わない」
ありすが目を丸くする。
「何それ」
「ちゃんと分かってから言う」
いつも通り。
理屈っぽい答え。
なのに。
ありすは吹き出す。
「千翠らしい」
笑う。
その笑顔を見て。
千翠の胸の奥が、また少しだけ温かくなる。




