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第五十七話 我慢

 ここ二週間。


 帰りが合わない日々が続いていた


 仕事が立て込んでいた。


 ありすも忙しかったし、千翠も一課の大きな事件の影響で連日駆り出され、帰りが遅くなる日が続いていた。


 連絡は取っている。


 仕事の合間に、短いやり取りもする。


 けれど。


 顔を合わせても、約束通り職場では必要以上に近づかない。


 だから。


 最後に二人で駅まで歩いたのは、もう二週間前だった。



⸻



 夜。


 捜査三課。


 ありすは、デスクに向かっていた。


 人はもうほとんどいない。


 静かな室内。


 キーボードの音だけが、規則的に響く。



(……今日も来てない)



 ふと、思う。


 顔を上げる。


 視線を巡らせる。


 当然、いない。



(……そりゃそうか)



 自分で決めたルール。


 仕事中は来ない。


 終わるまで待つ。


 それを、守っているだけ。


 分かっている。


 なのに。



(……なんで気にしてるの)



 小さく息を吐く。


 視線を戻す。


 作業に集中する。



⸻



 同じ頃。


 捜査一課。


 千翠は、自分のデスクで最後の資料を確認していた。


 時計を見る。


 いつもより、少し早い時間だった。


 ここ二週間。


 仕事が忙しかった。


 千翠が仕事を終える頃には、ありすはもう帰っている。


 何度か、すれ違っていた。


 顔を合わせることはある。


 仕事の話もする。


 でも。


 二人で帰ることはできていない。


 千翠は資料を閉じる。


 鞄にしまう。


 立ち上がる。



(……まだいるか)



 廊下に出る。


 足が、三課の方向へ向く。


 一瞬。


 止まる。


 時計を見る。


 この時間なら。


 いつもなら、ありすはまだ仕事をしていることが多い。


 でも。


 確信はない。


 千翠は少しだけ考える。


 帰っていても、それなら仕方ない。


 そう思いながら。


 三課のフロアから少し離れた場所で足を止める。


 明かりがついている。


 ありすだ。


 でも。


 まだ終わっていない。



(……あとどれくらい)



 待つことには慣れていない。


 でも。


 二週間会えていない今は。


 余計に、時間が長く感じる。


 でも。


 言われたから。


 守っている。


 視線を落とす。



(……行けば早い)



 事実。


 近くに行けば。


 名前を呼ばせれば。


 それで終わる。


 でも。



(……違う)



 それは、ダメだと分かっている。


 前に言われたこと。


 全部、残っている。


 一歩も動かない。


 ただ、待つ。


 五分。


 十分。


 時間だけが過ぎる。


 その間。


 何度か、足が動きかける。


 でも、そのたびに止める。



(……まだ)



 抑える。


 でも。


 少しずつ。


 削られていく。


 静かに。


 確実に。



⸻



 やがて。


 扉が開く音。


 ありすが出てくる。


 足を止める。


 一瞬。


 視線が合う。



(……いた)



 ありすの思考が止まる。


 千翠は、何も言わない。


 ただ、見ている。


 いつもと同じ距離。


 でも。


 何かが違う。



「……いつから」



 ありすが先に聞く。


 千翠は少しだけ考える。



「さっき」



 短く答える。


 ありすは数秒黙る。



(……待ってた?)



 言葉にしなくても、分かる。


 千翠が口を開く。



「終わった?」



 確認。


 声は、いつも通り。


 でも。


 わずかに低い。


 ありすは頷く。



「……終わった」



 その瞬間。


 千翠が、一歩だけ近づく。


 止まる。


 触れない。


 でも。


 距離が、少しだけ近い。



「……呼んで」



 静かに言う。


 前と同じ言葉。


 でも。


 圧が、少しだけ違う。


 ありすの呼吸が揺れる。



(……これ)



 分かる。


 我慢してたやつだ。


 視線を逸らす。


 少しだけ、考える。


 そのあと。



「……千翠」



 呼ぶ。


 短く。


 その瞬間。


 千翠の肩の力が、ほんのわずかに抜ける。



「……うん」



 低く返す。


 それだけ。


 でも。


 明らかに、さっきまでと違う。


 ありすはそれを見る。


 千翠の手。


 一瞬だけ動いて。


 でも。


 自分で止めた。



(……また)



 触れようとして。


 やめた。


 ちゃんと。


 職場だから。


 ありすは小さく息を吐く。



「……えらい」



 ぽつりと零れる。


 千翠が、少しだけ目を瞬かせる。



「ちゃんと我慢できてる」



 少しだけ笑って言う。


 千翠は数秒黙る。


 それから、小さく頷いた。



「……約束だから」



 短く。


 それだけ返す。


 ありすの胸が、少しだけ熱くなる。



(……約束)



 ちゃんと覚えてる。


 ちゃんと守ってる。


 だからこそ。



(……早く外、行きたい)



 そんなことを思ってしまう自分に、少しだけ驚く。


 そのとき。



「帰る?」



 千翠が静かに聞く。


 ありすは小さく頷いた。



「うん」



 二人は並んで歩き出す。


 フロアを抜けて。


 廊下を歩いて。


 エレベーターに乗る。


 誰もいない静かな空間。


 それでも。


 千翠は何もしない。


 一定の距離を保ったまま。



(……本当に何もしない)



 ありすは横目でちらりと見る。


 少しだけ残念そうな自分に気づいて、慌てて視線を逸らした。



⸻



 エントランスを出る。


 夜風が頬を撫でる。


 会社の建物が背中に遠ざかる。


 その瞬間。



「……ありす」



 低い声。


 振り向く。


 千翠は少しだけ息を吐いて。



「もう、いい?」



 短く聞く。


 ありすは一瞬だけ意味を考える。


 そして。


 すぐに分かる。



(……職場、出た)



 思わず笑ってしまう。



「……うん」



 小さく頷く。


 それだけで十分だった。


 千翠の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


 次の瞬間。


 そっと手が伸びてくる。


 前みたいに急がない。


 確認するみたいに。


 ありすの手に、指先が触れる。


 ゆっくり絡む。


 手を繋ぐ。


 ありすも、握り返した。



(……あ)



 その瞬間。


 胸の奥が、ふわっと軽くなる。


 さっきまで感じていた物足りなさが、少しだけ溶けていく。



「……我慢してた?」



 ありすが小さく聞く。


 千翠は少しだけ考えてから。



「うん」


 一拍。


「結構」



 正直に答える。


 ありすは思わず笑ってしまう。



「私も」



 その一言に。


 今度は千翠の思考が止まる。


 繋いだ手に、ほんの少しだけ力が入る。



「……それは、困る」



 ぽつりと漏らす。


 ありすは首を傾げる。



「何が?」


「……かなり嬉しい」



 珍しく、隠さない。


 ありすの頬が一気に赤くなる。



「……もう」



 照れ隠しみたいに小さく笑う。


 繋いだ手だけは、そのまま離さなかった。

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