第五十六話 恋人らしく
数日後。
夜。
仕事帰り。
いつからか。
二人で駅まで帰ることが、当たり前になっていた。
千翠が「送る」と言う。
ありすが「駅まで」と返す。
それだけ。
特別な約束をしたわけでもない。
それでも。
仕事が終われば、自然と並んで歩く。
そんな時間が、少しずつ増えていた。
駅までの道。
街灯がぽつぽつと並ぶ歩道を、二人で歩く。
静かな時間。
会話は少ない。
でも。
沈黙は、もう苦じゃない。
ふと、隣から声がする。
「ありす」
「何」
千翠は少しだけ考えて。
静かに言った。
「呼んで」
ありすは思わずため息をつく。
「……しつこい」
「うん」
否定しない。
その返事が可笑しくて。
ありすは小さく笑う。
「なんでそんなに呼んでほしいの」
素直な疑問だった。
千翠はすぐには答えない。
少しだけ視線を落として。
考える。
数秒。
「……分からない」
最初にそう言った。
ありすは少しだけ目を丸くする。
「でも」
一拍。
「呼ばれると」
言葉を探すように。
ゆっくり続ける。
「嬉しい、と思う」
静かな声。
飾らない一言。
ありすは黙って聞いている。
「あと」
また少しだけ考える。
「近づいても、大丈夫なんだって思う」
一拍。
「許されてる感じがする」
ありすの足が、少しだけゆっくりになる。
千翠はそのまま続けた。
「だから」
「また聞きたくなる」
それだけだった。
理由としては、とても単純。
でも。
嘘は一つもない。
ありすは何も言えない。
(……そんなふうに思ってたんだ)
名前を呼ぶ。
ただ、それだけ。
自分にとっては何気ないことだった。
でも。
千翠にとっては。
そんな意味があった。
「……大げさ」
照れ隠しみたいに言う。
千翠は首を横に振る。
「俺には大きい」
短く返す。
ありすは視線を逸らした。
耳が少し熱い。
数秒。
歩きながら、小さく息を吐く。
(そんなこと言われたら)
(……反則でしょ)
ありすは前を向いたまま。
小さく口を開く。
「……千翠」
静かな夜道。
その声だけが、届く。
一瞬。
千翠の足が止まりそうになる。
胸の奥が、小さく跳ねた。
(……また)
同じはずなのに。
この前よりも、もっと嬉しい。
視線が自然とありすへ向く。
ありすは照れ隠しみたいに言う。
「……これで満足?」
千翠は数秒黙る。
処理して。
静かに頷いた。
「……嬉しい」
その一言だけ。
ありすは思わず笑う。
「分かりやすい」
千翠は少しだけ考える。
呼ばれると嬉しい。
近づきたい。
その思考が、そのまま言葉になる。
「……触れたい」
ありすの心臓が跳ねる。
「……は?」
反射的に返す。
千翠はいつも通りの様子。
「少しだけ」
静かな声。
ありすは周りを見る。
帰宅途中。
駅へ向かう人たち。
まだ人はいる。
(……ここで?)
それは無理。
でも。
その言葉を拒絶したいわけじゃない。
数秒。
小さく息を吐く。
「……手なら」
小さく言う。
「手、繋ぐくらいなら」
一瞬。
今度は千翠が固まった。
「……どうしたの」
ありすが少し笑う。
千翠は正直に答える。
「予想してなかった」
その返事が可笑しくて。
ありすは吹き出す。
「何それ」
笑いながら。
そっと右手を差し出す。
「ほら」
千翠は数秒、その手を見つめる。
まるで。
壊れ物に触れるみたいに。
ゆっくりと手を重ねる。
指先が触れる。
少しだけ力が入る。
でも。
握るというより。
確かめるような手。
ありすは繋がれた手を見て。
少しだけ笑う。
「そんなに遠慮しなくていい」
千翠は目を瞬かせる。
「……そう?」
「うん」
ありすは少しだけ照れながら。
小さく笑う。
「……恋人なんだから」
その一言に。
千翠は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が、ゆっくり熱くなる。
それが何なのか。
まだ、うまく説明できない。
でも。
嬉しかった。
代わりに。
繋いだ手を、ほんの少しだけ握り返す。
強すぎない。
でも。
今度は迷わずに。
ありすも、その手を振りほどかなかった。
夜道を。
二人は並んで歩いていく。
繋いだ手は、ずっとそのままだった。




