第五十五話 呼び方
数日後。
夜。
ありすの部屋。
静かな空間。
テーブルの上に、資料が広がっている。
ペンを持つ手が、止まる。
(……集中できない)
小さく息を吐く。
原因は分かっている。
(……触れてこない)
ここ数日。
千翠は、本当に守っている。
仕事中は近づかない。
必要以上に話しかけない。
触れてもこない。
全部。
自分が言った通り。
(……これでいい)
そう思う。
思うのに。
どうしてか。
少しだけ、寂しい。
小さく息を吐く。
(……外なら)
仕事じゃない場所なら。
会えば。
きっと、前みたいに。
そう思う。
でも。
(……私から?)
思考が止まる。
“会おう”
その一言が、言えない。
理由もないのに誘うなんて。
もっと無理。
(……何考えてるんだろ)
小さく頭を振る。
全部、自分で決めたことなのに。
ふと、スマホに手が伸びる。
止まる。
(……何て送るの)
理由がない。
用事もない。
それなのに。
数秒。
そのまま。
結局、画面を閉じる。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
⸻
翌日。
夜。
捜査三課。
フロアには、もうほとんど人がいない。
残っているのは、ありすだけ。
デスクライトの白い光。
キーボードを打つ音だけが、静かに響いている。
報告書の最終確認。
あと少しで終わる。
そのとき。
扉が開く音。
ありすの指が、わずかに止まる。
顔を上げる。
そこにいるのは。
千翠。
一瞬だけ視線が合う。
でも。
「……」
千翠は何も言わない。
そのまま資料棚へ向かう。
必要なファイルを抜き取る。
動きはいつも通り。
無駄がない。
ただ。
近づいてこない。
目も合わせない。
必要な用事だけ済ませて、戻るつもりなのが分かる。
(……何それ)
胸の奥が、わずかに引っかかる。
当然だ。
自分で言った。
必要なときだけ。
近づきすぎない。
その通りにしているだけ。
(……分かってる)
正しい。
なのに。
妙に、落ち着かない。
千翠が資料を手に、踵を返す。
このまま出ていく。
(……待って)
思ったより先に。
「……ねえ」
(……今なら)
仕事も終わる。
このまま。
『……今日、時間ある?』
その一言でいい。
外で。
少しだけ話せれば。
そう思った。
でも。
喉まで出かかった言葉が、止まる。
(……そのあと、何て言えばいいの)
理由がない。
用事もない。
数秒。
結局。
「……この前の件」
口から出たのは。
全然違う言葉だった。
「もう一回確認したい」
理由を作る。
千翠は一瞬だけ考え。
小さく頷く。
「分かった」
それだけ言って。
こちらへ歩いてくる。
一歩。
距離が縮まる。
ほんの少しだけ。
それだけで。
さっきまでの違和感が、わずかにほどける。
(……何それ)
自分で思う。
おかしい。
でも。
そのまま。
横に並ぶ。
資料を開く。
説明が始まる。
内容は入る。
理解もできる。
でも。
意識の一部が、そこじゃない。
一瞬。
指先が触れる。
ほんの、かすかに。
その瞬間。
思考が止まる。
(……あ)
反射的に。
離れない。
ほんの一瞬だけ。
そのままにする。
すぐに戻る——はずだったのに。
「……千翠」
先に、声が出る。
一瞬。
空気が止まる。
ありす自身が固まる。
(……は?)
今の。
(自分で言った?)
千翠も止まっている。
ほんの少しだけ目を見開いて。
数秒。
静かに、ありすを見る。
「……今の」
一拍。
「初めて聞いた」
低く。
静かな声。
ありすは視線を逸らす。
「……口が滑っただけ」
誤魔化すように言う。
でも。
耳は少し赤い。
千翠は数秒その表情を見つめて。
「……そう」
小さく頷く。
それ以上は何も言わない。
仕事の空気を壊さないように。
そのまま資料へ視線を戻した。
⸻
フロアにはもうほとんど人がいない。
ありすが鞄を持つ。
その横で。
「送る」
いつもの一言。
ありすは小さく息を吐いて。
「……駅まで」
短く返す。
二人は並んで歩き出した。
⸻
静かな夜道。
二人並んで歩く。
会話は少ない。
千翠が口を開く。
「ありす」
「何」
「さっきの」
少しだけ間。
「もう一回呼んで」
ありすの足が一瞬だけ止まりそうになる。
「……は?」
「名前」
淡々と続ける。
「もう一回」
ありすは視線を逸らす。
耳が熱い。
(……無理)
「……やだ」
小さく返す。
千翠は少しだけ首を傾げる。
「なんで」
「……恥ずかしいから」
ぽろっと本音が出る。
言った瞬間。
ありす自身が固まる。
(……何言ってるの)
顔が熱い。
千翠は数秒その言葉を処理して。
「……そうなんだ」
静かに言う。
「じゃあ」
少しだけ口元が緩む。
本当に少しだけ。
「またそのうち聞く」
ありすは思わず笑ってしまう。
「……しつこい」
「うん」
否定しない。
その返事が可笑しくて。
ありすは困ったように笑った。




