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第五十四話 気になる距離②

 昼過ぎ。


 廊下。


 曲がり角を抜けたところで、足が止まる。


 少し先。


 ありすが、見覚えのない男と話している。


 同じ警察署の人間なのは分かる。


 距離は近くない。


 触れてもいない。


 手元の書類を見ながら、何かを話している。


 ただの業務連絡。


 それだけだった。


 千翠は、そのまま再び歩き出そうとした。


 そのとき。



「……それなら、こっちじゃない?」



 ありすが書類を指差す。


 男が何か答える。


 ありすは一瞬だけ考えて。


 ふっと笑った。


 ほんの少し。


 口元が緩む程度の、柔らかな笑顔。


 千翠の足が止まった。


 視線が、ありすに向く。


 正確には。


 その笑顔に向いた。



(……笑った)



 珍しいわけではない。


 ありすは仕事中でも笑う。


 誰かと話しているときに、笑うことだってある。


 それ自体は、知っている。


 なのに。


 なぜか。


 そのまま見ていられなかった。


 千翠は、隣にいる男を見る。


 知らない。


 名前も。


 所属も。


 どんな人間なのかも。


 ただ。


 ありすが今、笑顔を向けている相手だということだけは分かる。



(……何だ)



 距離は近くない。


 触れてもいない。


 仕事の話をしているだけ。


 それなのに。


 胸の奥に、引っかかる。


 もう一度、ありすを見る。


 また笑っていた。


 その笑顔を。


 知らない男に向けている。



(……嫌だ)



 一瞬だけ。


 そんな言葉が浮かんだ。


 千翠は、わずかに眉を寄せる。



(……何が?)



 答えは出ない。


 ただ。


 そのとき。


 昨日のありすの言葉が、ふと蘇った。



『そういうのは、仕事が終わってから聞く』



 千翠は、ありすを見る。


 まだ仕事中だ。


 なら。



(……今じゃない)



 そう思った。


 昨日、言われたことを守る。


 それが正しい。


 千翠は視線を逸らす。


 そのまま仕事に戻った。


 けれど。


 さっき見た笑顔だけが。


 なぜか、頭から離れなかった。



⸻



 夜。


 人がほとんどいなくなったフロア。


 照明が少し落ちている。


 ありすはデスクの電源を落とす。


 立ち上がる。


 そのとき。



「ありす」



 背後から声。


 振り向く。


 入り口付近に千翠がいた。


 そのまま近づいてくる。


 距離は、少し近い。


 でも。


 踏み込みすぎない位置。



「……何」



 千翠は少しだけ考えてから、口を開いた。



「昼間」


「うん」


「俺の知らない人と話してた」



 ありすは瞬きをする。



「……ああ」



 昼ごろ。


 廊下で話していたことだろう。



「昔、同じ課だった同期」


「……そう」



 千翠は黙る。


 ありすは少し待った。


 けれど。


 それ以上、何も言わない。



「……それだけ?」


「?」



 千翠は少し考える。



「……誰なのか、知りたかった」


「名前?」


「それも」


「それも?」


「……どんな人なのかも」



 ありすは、千翠を見る。


 その表情はいつもと変わらない。


 けれど。


 なぜか、少しだけ分かった気がした。



(……仕事終わってから言いに来た)



 この前とは違う。


 ちゃんと約束を守っている。


 ありすは小さく息を吐いた。



「仕事」



 短く答える。



「前に言ったこと、ちゃんと守ったね」



 ぽつりと言う。


 千翠は少しだけ考えて。



「仕事中は言わない方がいいって言われた

から」



 事実だけを返す。


 ありすの口元が、ほんの少しだけ緩む。



「……うん」



 小さく頷く。



「それでいい」



 千翠はその反応を見てから続ける。



「それでも」



 少しだけ視線が揺れる。



「気になった」



 静かに言う。


 ありすの呼吸が、ほんの少しだけ乱れる。



(……またそれ)



 でも。



(……ちゃんと抑えてる)



 前とは違う。


 一歩。


 千翠が近づく。


 距離が、ゆっくり詰まる。


 逃げ場はある。


 でも。


 逃げない距離。



「今日」



 続ける。



「ずっと引っかかってた」



 低く。


 ありすは何も言わない。


 視線を逸らさない。


 千翠が手を伸ばす。


 あと少し。


 その距離で。


 千翠が止まる。


 数秒。


 静かな時間。


 そのあと。


 ほんのわずかに息を吐く。



「……やめとく」



 低く。


 抑えるように言う。


 ありすは一瞬だけ、その意味を考える。


 そして。



(……職場だから)



 答えにたどり着く。


 この前。


 自分が言ったこと。


 仕事と私情は分けること。


 千翠は、それを守ろうとしている。


 ありすは小さく息を吐いた。



「……えらい」



 ぽつりと漏れる。


 千翠がわずかに目を瞬かせる。



「ちゃんと止まったね」



 少しだけ照れくさそうに続ける。


 千翠は数秒考えてから。



「止まらないと、また困らせる」



 静かに返す。


 ありすの胸が、少しだけ熱くなる。



(……ちゃんと考えてる)



 前とは違う。


 衝動のままじゃない。



「うん」



 短く頷く。



「そのままでいて」



 ありすが笑う。


 本当に、少しだけ。


 その笑顔を見た瞬間。


 千翠の胸の奥が、小さく跳ねた。



(……何だ)



 分からない。


 でも。


 もう一回、見たい。



(……また笑ってほしい)



 そんな思考が、一瞬だけ浮かぶ。


 ありすは何も知らないまま。



「……じゃあ、帰る」



 小さく言う。


 区切るみたいに。


 千翠は頷く。



「送る」



 自然に出る。


 ありすは少しだけ迷って。



「……駅まで」



 小さく返す。


 千翠はそれ以上何も言わない。


 二人で歩き出す。


 距離は、触れないまま。


 でも。


 さっきより、ずっと近い。


 触れていないのに。


 その距離が、今日は嫌じゃなかった。

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