第五十三話 気になる距離①
午後。
捜査三課。
ありすはデスクに向かっていた。
「七沢課長、この件なんですが」
部下の声。
顔を上げる。
「うん、見せて」
資料を受け取る。
自然な流れ。
距離も、普通。
横に並んで確認する。
少し近い。
でも、業務上の距離。
「ここなんですけど——」
部下が指す。
ありすが身を寄せる。
「……ああ、ここね」
同じ資料を覗き込む。
距離がさらに近くなる。
そのとき。
少し離れた場所。
千翠が、それを見ていた。
無言で。
視線だけが動く。
(……近い)
思考が浮かぶ。
事実として。
(業務上)
理解はできる。
問題はない。
そう判断できる。
でも。
視線が、外れない。
数秒。
そのまま。
ありすが少しだけ笑う。
業務の流れの中で。
自然な反応。
それを見た瞬間。
思考が、わずかに止まる。
(……何で)
言葉にならない違和感。
胸の奥が、少しだけざわつく。
理由が、分からない。
(……業務)
問題はない。
そう判断できる。
でも。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
(……何で)
理由が出ない。
説明もできない。
ただ。
視線だけが、あの距離から離れない。
一歩。
気づけば、足が動いていた。
「ありす」
一拍。
「少しいい?」
いつもより少しだけ低い。
ありすの手が止まる。
顔を上げる。
「……何」
少しだけ間がある。
その間に。
千翠はさらに一歩近づく。
距離が、不自然になる。
部下が一瞬だけ動きを止める。
空気が変わる。
(……あ)
ありすが気づく。
この距離。
このタイミング。
よくない。
「……ちょっと」
低く言う。
千翠を見る。
制止の意図。
千翠は、一瞬だけ止まる。
数秒。
視線が揺れる。
その間に。
思考が走る。
(……来すぎ)
(距離)
(仕事の流れ)
前に言われたこと。
全部、重なる。
千翠が、わずかに息を吐く。
「……なんでもない」
小さく言う。
そのまま。
一歩下がる。
距離を戻す。
元の位置へ。
それ以上、何も言わない。
ありすは数秒黙る。
部下も、静かに様子を見る。
「……続き」
ありすは何事もなかったみたいに言う。
部下も頷く。
「はい」
仕事に戻る。
空気が、少しずつ戻る。
⸻
数分後。
説明が終わる。
「ありがとうございます」
部下が下がる。
ありすは小さく息を吐く。
そのとき。
視線だけを横に向ける。
少し離れた場所。
千翠がいる。
さっきより、距離を取っている。
何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
ありすが立ち上がる。
千翠に近づく。
「……ちょっと来て」
小さく言う。
⸻
廊下。
人のいない場所。
足を止める。
振り返る。
「……今の」
短く言う。
責める声ではない。
でも、軽くもない。
千翠は少しだけ考える。
「……距離」
自分で言う。
ありすの眉が、わずかに動く。
「分かってるならいい」
一拍。
「守って」
短く。
千翠は頷く。
「守る」
迷いなく。
でも。
一瞬だけ、視線が揺れる。
そのあと。
「……さっき」
ぽつりと。
ありすが見る。
「何」
千翠は少しだけ言葉を探す。
「……気になった」
短く。
ありすは一瞬だけ首を傾げる。
「何が」
千翠は視線を逸らさない。
「他の人と、近かったから」
(……え)
一瞬。
意味が分からない。
でも。
すぐに思い当たる。
さっき。
部下と資料を見ていた距離。
(……ああ)
ようやく理解する。
数秒。
沈黙。
そのあと。
ありすの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……そういうのは」
一拍。
「仕事が終わってから聞く」
やわらかく言う。
責めるでもなく。
突き放すでもなく。
線だけを引く。
千翠は数秒考える。
その言葉を、そのまま受け取るように。
「……分かった」
小さく頷く。
「次は、仕事が終わってから言う」
迷いなく言う。
ありすは小さく息を吐く。
ほんの少しだけ笑って。
「……ならいい」
それで終わる。
千翠はそれ以上踏み込まない。
距離も、そのまま。
でも。
さっきより少しだけ。
空気がやわらかくなっていた。
少しだけ、整った。
そんな感覚だけが残る。




