第五十一話 変わる歩幅③
朝。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込む。
ありすはゆっくり目を開けた。
(……ここ)
昨夜の記憶を辿る。
千翠とご飯を食べて。
ここへ来て。
少しだけ休むつもりで──。
(……そうだ)
少しだけ休むつもりだった。
千翠の肩にもたれて。
そのまま──。
一拍。
そこで、違和感に気づく。
(……なんでベッド)
最後の記憶では。
ベッドには座っていただけだった。
横になった覚えはない。
視線を動かす。
ベッドの端。
膝を抱えたまま壁にもたれ。
千翠が眠っていた。
(……え)
一瞬、思考が止まる。
(私をベッドに寝かせた?)
(じゃあ)
(ずっとそこで寝てた?)
思わず千翠を見る。
その姿勢のまま眠っていたせいか。
少しだけ首が傾いている。
(……身体、痛くないの)
そう思ってありすが少し動いた瞬間。
その気配で、千翠がゆっくり目を開ける。
起き上がる前に、小さく首を回す。
「……起きた?」
少し掠れた声。
ありすは数秒、千翠を見る。
「……起きた」
一拍。
「……ベッドに寝かせてくれたの?」
千翠は小さく頷く。
「肩にもたれたまま寝たから」
「首痛そうだったし」
淡々とした説明。
ありすはベッドの端を見る。
少しだけ乱れたシーツ。
「……ずっとそこにいたの?」
「うん」
短い返事。
ありすは思わず眉を寄せる。
「身体、大丈夫?」
「少し首は痛い」
一拍。
「でも問題ない」
いつもの調子。
ありすは小さく息を吐く。
「……ごめん」
ぽつりと漏れる。
「こんな寝るつもりじゃなかった」
千翠は首を横に振る。
「寝てたから」
「起こさなかっただけ」
それだけ。
沈黙。
変に静かになる。
(……気まずい)
でも。
嫌な感じではない。
むしろ。
(……なんか)
言葉にできない違和感。
でも、悪くない。
ありすは少しだけ視線を外す。
「……昨日」
一拍。
「何もしてないよね」
確認。
千翠は一瞬だけ考える。
「してない」
はっきり。
「……もう一回、キスしたくなったけど」
静かに付け足す。
ありすの思考が止まる。
「……それ言う?」
低く返す。
千翠は少しだけ首を傾ける。
「聞かれたから」
悪びれない。
「でも」
一拍。
「昨日は、一回だけって約束だったから」
(……ちゃんと覚えてる)
その事実だけは、ちゃんと残る。
一拍。
ありすはベッドから起き上がる。
「……帰る」
短く言う。
千翠も起き上がる。
「送る」
自然に出る言葉。
「大丈夫」
即答。
一拍。
千翠は少しだけ考える。
「じゃあ、途中まで」
譲歩案。
ありすは少しだけ迷って。
「……駅まで」
短く許す。
それだけで、十分な譲歩。
千翠は小さく頷く。
「分かった」
それ以上は詰めない。
その距離感が。
少しだけ、前よりも自然だった。
⸻
玄関。
靴を履く。
ドアの前。
一瞬だけ、間が空く。
何か言うべきか。
言わなくてもいいのか。
その曖昧な時間。
千翠が先に口を開く。
「昨日」
一拍。
「来てくれてよかった」
短く。
でも、はっきり。
ありすの動きが一瞬止まる。
視線を上げる。
千翠は、いつもと同じ顔。
でも。
少しだけ、柔らかい。
ありすは数秒黙る。
そのあと。
「……酔ってただけ」
そっけなく返す。
でも。
完全な否定ではない。
千翠はそれ以上何も言わない。
ただ、小さく頷く。
「それでも」
一言だけ。
ありすは視線を逸らす。
「……行くよ」
それだけ言って、ドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
朝の匂い。
少し冷たい風。
ありすは一歩踏み出す。
千翠も続く。
距離は、近すぎない。
でも、遠くもない。
その微妙な位置のまま。
二人は並んで歩き出した。




