第五十話 変わる歩幅②
休日。
夕方。
駅前。
ありすは少しだけ早く着いていた。
人通りの多い場所。
ざわついた空気。
仕事とは違う音。
視線が自然と周囲を追う。
(……デート)
言葉にすると、まだ違和感がある。
でも。
今日は、そのつもりで来ている。
「ありす」
声。
振り向く。
千翠が立っている。
一瞬だけ、誰か分からなかった。
いつものスーツ姿じゃない。
黒のシャツに、濃い色のデニム。
飾り気はない。
ただ、それが妙に似合っていた。
(……私服、初めて見た)
「……早いね」
ありすが言う。
千翠は腕時計を見る。
「十分前」
「うん」
「ありすも」
「……そうだね」
短い会話。
それだけで、少し間が空く。
仕事のときみたいに、目的がない。
それが逆に、難しい。
「……行くか」
ありすが言う。
千翠は頷く。
⸻
店内。
落ち着いた照明。
騒がしすぎない空間。
向かい合って座る。
少しだけ距離がある。
(……近くない)
それだけで、妙に意識する。
千翠はメニューを見ている。
「何でもいい?」
「いいよ」
即答。
そのあと。
「ありすが選んで」
一拍。
「好み、まだ分かってないから」
淡々と。
でも。
ちゃんと“合わせようとしている”。
ありすは少しだけ目を逸らす。
「……じゃあ、これ」
適当に選ぶ。
でも、外さないもの。
⸻
食事が運ばれる。
会話は、ぽつぽつ。
仕事の話が少し。
それ以外は、少ない。
「こういうの、来る?」
ありすが聞く。
確認みたいに。
「来ない」
即答。
「必要ないから」
一拍。
「でも、今日は来てよかった」
淡々と。
評価みたいに。
でも。
(……それだけじゃない)
ありすは分かる。
少しずつ、変わっている。
⸻
グラスが空く。
アルコールが入る。
少しだけ、思考が緩む。
(……ちょっと飲みすぎたかも)
自覚はある。
でも。
嫌じゃない。
隣にいるのが千翠だからか。
理由は分からない。
「ありす」
呼ばれる。
「大丈夫?」
視線がまっすぐ来る。
「……大丈夫」
少しだけ遅れて答える。
「歩ける?」
「それは失礼」
軽く返す。
でも。
立ち上がったとき、少しだけふらつく。
その瞬間。
手首を軽く支えられる。
「……平気」
言うけど。
「知ってる」
一拍。
「でも、転ばれると困る」
淡々と。
合理的。
(……そういう言い方)
少しだけ笑いそうになる。
⸻
店を出る。
夜。
駅前。
人の流れが少しだけ緩んでいる時間帯。
外の空気は少しだけ冷たい。
歩き出す。
最初は少しだけ距離がある。
でも。
信号を渡るころには。
いつの間にか、歩幅が揃っていた。
どちらも合わせたつもりはない。
自然に。
それだけだった。
ありすは少しだけ横を見る。
(……近い)
でも。
離れようとは思わなかった。
ありすは小さく息を吐いた。
アルコールが、わずかに残っている。
足元は安定している。
でも、思考はいつもより少しだけ緩い。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに言う。
隣。
千翠が歩いている。
一定の距離。
近すぎない。
でも、離れすぎない。
「平気」
続ける。
千翠は返事をしない。
代わりに。
ありすを見る。
少しだけ赤い頬。
いつもよりゆっくりな足取り。
潤んだ目。
視線が合うたび、少しだけ反応が遅い。
数秒。
見つめたまま。
「……歩けるのは分かる」
静かに言う。
一拍。
「でも」
少しだけ言葉が止まる。
考える。
「一人では帰したくない」
ありすが目を瞬かせる。
「……なんで?」
千翠はまた考える。
「ありす、酔ってるから」
一拍。
「……あと」
「落ち着かない」
ぽつりと言う。
ありすは何も返せない。
(……何それ)
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
千翠はそのまま続ける。
「だから家まで送る」
一拍。
「その方が安心できる」
ありすは首を横に振る。
「……大丈夫」
「一人で帰れる」
迷いなく言う。
千翠は数秒だけ考える。
否定はしない。
そのまま別の方法を探す。
「……じゃあ」
一拍。
「酔いが覚めるまで休もう」
ありすが少しだけ眉を寄せる。
「……どこで?」
千翠はまた少し考える。
駅前を見回す。
数秒。
「……俺の家、近いけど」
一拍。
「どうする?」
押しつけない。
選択だけ渡す。
ありすは黙る。
数秒。
考える。
(……選べってこと)
無理に連れて行こうとはしない。
断れば、それで終わる。
そのことが分かるからこそ、余計に迷う。
一拍。
「……酔いが覚めたら帰るから」
小さく言う。
それが返事になる。
千翠はすぐに頷いた。
「うん」
「分かった」
⸻
マンションの前。
前と同じ場所。
でも。
前とは少しだけ違う。
エントランスを抜ける。
エレベーター。
静かな上昇。
並んで立つ。
距離は、前より少しだけ自然。
扉が開く。
廊下を歩く。
鍵の音。
ドアが開く。
千翠が一歩だけ横へ避ける。
「どうぞ」
同じ言葉。
ありすは一瞬だけ立ち止まる。
(……二回目)
前より、迷いが少ないことに気づく。
そのまま、中に入る。
その瞬間。
後ろで扉が静かに閉まる。
ふと振り返ると。
思っていたより近くに千翠がいて。
一瞬だけ目が合う。
二人とも何も言わない。
ただ。
少しだけ照れたみたいに。
ありすが先に視線を逸らした。
⸻
部屋。
相変わらず、何もない。
でも。
(……前より落ち着く)
そう思ってしまう自分に気づく。
靴を脱ぐ。
少し奥へ進む。
振り返る。
視線が合う。
一瞬。
静けさ。
千翠がゆっくり近づく。
でも。
途中で止まる。
距離を詰めきらない。
「……ここまでは大丈夫?」
低く聞く。
確認。
前とは違う。
ありすは一瞬だけ考えて。
「……それくらいなら」
短く返す。
千翠は小さく頷く。
それ以上は来ない。
その距離が、逆に落ち着く。
一拍。
ありすが視線を外す。
(……ちょっとくらいならいいか)
自分でもよく分からない判断。
そのとき。
「ありす」
呼ばれる。
視線が戻る。
珍しく、千翠は少しだけ迷っている。
「……触れていい?」
さっきより低い声。
選ばせる言い方。
ありすの思考が一瞬止まる。
(……ズルい)
そう思う。
でも。
逃げない。
「……少しだけ」
小さく言う。
千翠が、ゆっくり距離を詰める。
今度は、急がない。
手が伸びる。
肩に触れる。
引き寄せる。
強くはない。
でも、確かに近い。
ありすの呼吸が少しだけ乱れる。
前とは違う。
拒否しない。
選んでいる。
そのまま、少しだけ体重を預ける。
一瞬。
本当に短い時間。
千翠が動く。
「……キスしていい?」
低く。
確認。
ありすの視線が揺れる。
(……聞くんだ)
前とは違う。
「……一回だけ」
前と同じ言葉。
でも。
意味は、少し違う。
千翠が、わずかに近づく。
静かに触れる。
短い。
でも。
前より、確かにやわらかい。
離れる。
距離は、そのまま。
でも。
ありすの手は。
無意識に。
千翠の服を少しだけ掴んだままだった。
数秒。
気づいて。
「……ごめん」
ありすが手を引こうとする。
その前に。
千翠が、そっとその手を掴む。
数秒。
視線が重なる。
「……離さなくていい」
静かに言う。
「そのままで、よかった」
その声が。
少しだけ柔らかかった。
千翠は何も言わない。
ありすも、言わない。
ただ。
ほんの少しだけ。
空気が変わっていた。
千翠の視線が、わずかに動く。
ありすの表情。
少しだけ緩んでいる。
完全に警戒しているわけでもない。
呼吸も、さっきより近い。
(……柔らかかった)
思考が、静かに浮かぶ。
理由は分からない。
でも。
(……いい)
それだけは、はっきりしている。
千翠はもう一度距離を縮めようとして、
ふと止まる。
(……一回だけ)
さっきの言葉。
数秒。
手を下ろす。
「……やめとく」
低く言う。
ありすが、わずかに目を瞬かせる。
「今は」
付け足す。
それ以上、動かない。
ありすは数秒、何も言わない。
そのあと。
「……ちゃんと守るんだ」
ぽつりと。
確認みたいに言う。
千翠は視線を外さない。
「守るって約束したから」
一拍。
「ありすと」
淡々と返す。
ありすの呼吸が、一瞬だけ止まる。
(……何それ)
でも。
少しだけ。
胸の奥が、熱くなる。
ありすが視線を逸らす。
「……今日はここまで」
小さく言う。
区切るみたいに。
千翠は頷く。
「分かった」
素直に引く。
それ以上は求めない。
距離を一歩だけ取る。
さっきよりも、少しだけ遠い。
でも。
完全には離れない。
その中途半端な距離が。
前よりも、ずっと自然だった。
⸻
静かな部屋。
二人はベッドの端に並んで座っていた。
ありすは小さく息を吐く。
「……眠い」
アルコールが少しだけ残っている。
瞼が重い。
「少しだけ休む」
そう言って笑った次の瞬間。
体がふわりと傾く。
ことん。
頭が千翠の肩にもたれた。
一瞬だけ肩が揺れる。
「……ありす?」
返事はない。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
(……寝てる)
千翠はしばらくそのまま動かなかった。
肩に伝わる重さ。
体温。
数秒。
考える。
(このままだと)
一拍。
(首を痛める)
その結論だけが残る。
「……ごめん」
小さく呟く。
起こさないように。
そっと肩を支え。
ありすをベッドへ横に寝かせる。
毛布を掛ける。
寝息は変わらない。
(起きない)
確認する。
千翠はベッドの端へ腰を下ろした。
膝を抱える。
背中を壁へ預ける。
(起きたら送る)
そのつもりだった。
部屋は静かだった。
寝息だけが聞こえる。
数分。
ただ待つ。
そのはずだった。
目を閉じる。
ゆっくり。
意識が遠のいていった。




