第四十八話 扱い方③
その夜。
捜査三課。
ありすはまだデスクにいた。
資料は開いている。
でも、見ていない。
(……呼ぶか)
そう思った、そのとき。
「ありす」
声。
一瞬で分かる。
(……は?)
顔を上げる。
そこにいるのは。
神谷千翠。
何事もない顔で、立っている。
「……なんで来たの」
思わず出る。
千翠は少しだけ首を傾ける。
「聞きたいことがあったから」
あっさり。
ありすの思考が一瞬止まる。
(……タイミング悪い)
いや、むしろ。
(……いいのか)
どちらでもいい。
やることは同じ。
ありすは立ち上がる。
「……ちょっと来て」
短く言う。
千翠は何も言わず、ついてくる。
⸻
廊下。
人のいない場所。
足を止める。
一拍。
ありすは振り返る。
視線をまっすぐ向ける。
今は。
仕事。
「一課での動き、聞いた」
単刀直入に切り出す。
千翠は一瞬だけ考えて。
「……その件」
小さく頷く。
「俺も聞きたいことがあった」
ありすの眉がわずかに動く。
「……何」
「何が問題だったのか」
一拍。
「まだ整理できてない」
正直に言う。
ありすは数秒だけ黙る。
(……そういうこと)
説教されるとは思っていない。
本当に理由が分からないだけ。
だから聞きに来た。
ありすは小さく息を吐く。
「……私もその話をしたかった」
千翠は静かに頷く。
「うん」
ありすは視線をまっすぐ向ける。
「結果が出てるのは分かってる」
先に認める。
「でも」
声が少しだけ低くなる。
「周りが動けてない」
はっきり言う。
千翠は黙る。
処理している。
「共有しないまま動くと、連携が崩れる」
「指示系統も曖昧になる」
「結果が合ってても、それじゃダメ」
一つずつ。
逃げ道を残さない言い方。
数秒。
沈黙。
千翠が口を開く。
「……効率は落ちる」
確認みたいに言う。
ありすは頷く。
「落ちる」
認める。
「でも、それでもやるのが組織」
言い切る。
千翠はまた考える。
少し長く。
そのあと。
「……分かった」
「分かった?」
「一人で最短を選ぶより、他の人間が動ける形にした方がいい、ってことだよね」
「そういうこと」
千翠は周囲を見た。
さっき一課で言われたことを、頭の中でもう一度整理する。
自分が先に動けば、結果には早く辿り着ける。
けれど、その途中を共有しなければ、他の人間は動けない。
なら。
「……試してみる」
「え?」
「次から、先に共有する」
ありすは少し目を瞬いた。
「できそう?」
「分からない」
即答だった。
「でも、やったことがないから」
「……そうね」
「だから、試す」
「……そっか」
思わず、声が少し柔らかくなった。
「うん。それなら、いいと思う」
千翠は頷いた。
「やってみる」
ありすは、少しだけ千翠を見る。
(……ちゃんと、改善しようとしてるんだ)
それが、なんだか意外だった。
でも。
千翠は、自分には分からないことを分からないままにせず、試してみようとしている。
(……そういうところは、素直なんだよな)
そう思ったところで。
ありすは、もう一つの問題を思い出した。
「……それと、もう一つある」
「何?」
続ける。
千翠の視線が上がる。
「三課に来すぎ」
はっきり言う。
一瞬。
空気が変わる。
千翠が、ほんのわずかに止まる。
「……制限する?」
静かに確認する。
ありすは一拍置く。
「ダメじゃない」
まず、そこを切る。
そのあと。
「でも、今の頻度はダメ」
はっきり言う。
千翠は黙る。
視線は逸らさない。
「仕事の流れ、崩れる」
「周りも気にする」
「……私も、切り替えられなくなる」
最後だけ、少しだけ本音が混ざる。
数秒。
沈黙。
千翠が口を開く。
「……基準を決めて」
短く。
「どの程度なら問題ない?」
具体を求める。
ありすは少しだけ考える。
そのあと。
「呼んだ時だけ来て」
シンプルに置く。
「あと」
一拍。
「来ても、すぐ近くに来ない」
視線を外さずに言う。
千翠はその言葉を、そのまま受け取る。
数秒。
「……了解」
「その条件で動く」
端的に。
余計な感情は乗せない。
ありすは小さく息を吐く。
一区切り。
小さく頷く。
それで、仕事の話は終わる。
一拍。
千翠は視線を外さないまま、続ける。
「もう一つ」
少しだけ、間。
「時間、ある?」
さっきよりも、少し低い。
ありすの眉がわずかに寄る。
「内容による」
即答。
千翠は短く答える。
「個人的な話」
空気が、ほんの少しだけ変わる。
ありすは一瞬だけ黙る。
内容は、想像できる。
でも。
「今はダメ」
先に切る。
迷いなく。
千翠はわずかに目を細める。
「理由は」
淡々と確認する。
ありすは息を吐く。
「ここ、職場」
短く。
そのまま続ける。
「今は仕事優先」
線を引く。
千翠は黙る。
数秒。
そのまま処理する。
「……分かった」
今度は迷いがない。
「タイミングは任せる」
余計なことは言わない。
押さない。
ありすの表情が、ほんの少しだけ緩む。
(……やっぱり、言えば伝わる)
その変化を、はっきり認識する。
「……ありがと」
小さく言う。
千翠はわずかに首を傾ける。
でも、何も言わない。
「……仕事が終わったらね」
その言葉に、千翠は頷く。
「わかった」
「じゃあ、戻る」
仕事のトーンに戻す。
「うん」
それだけ。
そのまま距離を取る。
今度は、近づかない。
指示された通りに。
ありすはそれを見ている。
数秒。
(……守るんだ)
小さく息を吐く。
そのまま、背を向ける。
仕事に戻るために。
でも。
さっきより少しだけ。
気持ちは、静かだった。
⸻
デスクの上の資料を閉じる。
小さく息を吐く。
「……終わった」
ぽつりと漏れる。
そのタイミングで。
「ありす」
一瞬で分かる。
(……来た)
振り向く。
入口のところに、千翠が立っている。
距離はある。
近づいてこない。
ありすの視線が、わずかに揺れる。
(……待ってた?)
口には出さない。
「……何」
短く返す。
千翠は一拍置く。
「今、手空いてる?」
確認。
ありすはほんの少しだけ間を置く。
(……守ってる)
踏み込んでこない。
「……空いてるけど」
短く返す。
千翠は小さく頷く。
「じゃあ、少しだけいい?」
言い方も、合わせている。
ありすは立ち上がる。
「……場所変える」
短く言って、ありすは帰り支度をする。
歩き出す。
千翠は何も言わず、ついてくる。
⸻
廊下。
人のいない場所。
足を止める。
振り返る。
「ここでも大丈夫?」
ありすが聞く。
千翠は小さく頷く。
「うん」
一拍。
「このあと、時間ある?」
ありすが少しだけ首を傾げる。
「……何」
「このあと一緒にいられる?」
ありすは少し考えた。
「……今日は難しいかな」
「……そう」
千翠は、それ以上何も言わなかった。
「聞いただけ」
「……うん」
「無理には言わない」
そう言って、千翠は一歩下がる。
ありすは、その様子を見て少しだけ迷った。
せっかく、仕事が終わるまで待っていたのだ。
「……でも」
千翠が顔を上げる。
「途中までなら、送ってくれる?」
「……いいの?」
「うん」
「分かった」
千翠の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、行こう」
千翠はそう言って、歩き出した。
ありすも、その隣に並ぶ。
けれど、千翠は以前のように距離を詰めてこなかった。
半歩分くらい。
それくらいの距離を空けて歩いている。
(……覚えてるんだ)
さっきまでの話を。
本部を出て少し歩いたところでありすは口を開く。
「……ねえ」
「何?」
「もう少し近くてもいいよ」
千翠が足を止めた。
「……いいの?」
「うん。これくらいなら」
千翠は少しだけ近づいた。
それでも、触れない程度の距離だった。
「……これでいい?」
「うん」
二人で歩き出す。
夜道は静かだった。
仕事の話をするでもなく、特別な話をするでもなく。
ただ、同じ方向へ歩いていく。
やがて駅に着く。
「ここまででいい」
「分かった」
千翠は立ち止まる。
「気をつけて」
「……うん」
ありすは少しだけ振り返った。
「……あんたも」
「俺は大丈夫」
「そういうところ」
「?」
「……なんでもない」
ありすは小さく笑って、歩き出した。
数歩進んでから、もう一度だけ振り返る。
千翠はまだそこにいた。
ちゃんと、約束した距離にいる。
(……変わった)
ほんの少し。
でも、確実に。
言葉にすれば、ちゃんと受け止めてくれる。
嫌だと言えば、ちゃんと止まる。
待ってと言えば、待てる。
そして。
自分が少しだけ近づけば、その分だけ近づいてくる。
(……そういう人なんだ)
ありすは、今度こそ前を向いた。
さっきまでより。
ほんの少しだけ、足取りが軽かった。




