第四十四話 付き合うということ①
その日の夜。
捜査三課。
人はもうほとんどいない。
ありすは残務処理が終わり、帰り支度をしていた。
ふと思い出す。
(……付き合おう、って言った)
自分で言った言葉が、まだ馴染まない。
(……何それ)
思考が追いつかないまま、手だけ動かしている。
そのとき。
背後。
気配。
(……来た)
分かる。
振り向かなくても。
「ありす」
声。
さっきと同じ距離感。
ありすは小さく息を吐いて、ゆっくり振り向く。
「……何」
さっきよりも少しだけ警戒が薄い。
でも。
まだ慣れてない。
「帰る?」
一拍。
「……帰るけど」
千翠はそのまま、当たり前みたいに言う。
「そのまま一緒にいられる?」
ありすの思考が一瞬止まる。
(いやいやいや)
追いつかない。
「……帰る場所は変わらないでしょ」
冷静に返す。
正論。
でも。
千翠は少しだけ首を傾ける。
「一緒にいる理由はある」
真顔。
悪気ゼロ。
ありすは一瞬言葉に詰まる。
(……間違ってはないのがムカつく)
思考の中で突っ込む。
「……今日は帰る」
はっきり言う。
「一人で」
強調。
千翠は少しだけ考える。
数秒。
「じゃあ、送る」
別案。
「いらない」
即答。
「なんで」
純粋な疑問。
ありすはこめかみを押さえる。
(これか……)
理解する。
さっきの選択の意味を。
「……あのね」
一度、ちゃんと向き直る。
言葉を選ぶ。
「付き合うって言っても」
一拍。
「ずっと一緒にいるって意味じゃないの」
千翠は黙って聞く。
そのまま処理するみたいに。
「帰る場所も、時間も、それぞれあるし」
「会うのも、毎回じゃない」
区切って説明する。
ルールを与えるみたいに。
千翠は少し考える。
数秒。
「……制限、ってこと?」
ぽつりと。
ありすの眉がわずかに動く。
「違う」
すぐに否定する。
「距離」
言い直す。
「必要なの」
短く。
千翠はまた考える。
今度は少し長い。
そして。
「……でも」
一拍。
「距離は、近い方がいいと思う」
率直。
ありすの心臓が一瞬だけ強く打つ。
でも。
ここで流されない。
「……それは分かる」
一度、受ける。
「でも、そればっかりだとダメなの」
ちゃんと返す。
千翠は黙る。
視線は外さないまま。
そのあと。
少しだけ。
ほんの少しだけ、間を置いて。
「……難しいね」
ぽつりと。
初めての言葉。
ありすの表情が、少しだけ緩む。
(……そうだよ)
心の中で返す。
でも声には出さない。
「……慣れて」
短く言う。
千翠は小さく頷く。
「うん」
一拍。
「じゃあ今日は帰る」
二人は並んで歩き出す。
静かな廊下。
エレベーター。
誰もいない箱の中。
会話はない。
そのまま一階へ降りる。
⸻
本部を出る。
夜風が少しだけ涼しい。
人通りは少ない。
駅へ向かう道の分かれ道。
そこで千翠が足を止めた。
「ありす」
ありすも立ち止まる。
「……何」
千翠は少しだけ考える。
「確認してもいい?」
ありすは首を傾げる。
「……何を」
千翠は数秒だけ考える。
言葉を選ぶように。
「付き合ったら」
一拍。
「どこまで近づいていいのか、まだ分からない」
ありすは一瞬だけ言葉を失う。
あまりにも千翠らしい答えだった。
「だから」
一拍。
「確認したい」
真っ直ぐな視線。
打算も照れもない。
ただ、本当に分からないから聞いているだけ。
ありすは小さく息を吐く。
(……そういう聞き方)
少しだけ肩の力が抜ける。
でも。
次の言葉で、また止まる。
「……キスは?」
率直だった。
ありすは思わず辺りを見回す。
夜とはいえ。
ここは警察本部のすぐ前だ。
「……ダメ」
「ここでは」
即答だった。
「職場の前」
「誰かに見られたら困る」
千翠は周囲を見る。
人。
車。
建物。
数秒考えてから、小さく頷く。
「……場所も条件なんだ」
「そう」
ありすは少しだけ笑う。
「そういうことも、覚えて」
千翠は真面目に頷く。
「うん」
一拍。
「また一つ分かった」
ありすは思わず息を漏らす。
「……全部、確認するつもり?」
「うん」
一拍。
「間違えたくない」
「ありすのことだから」
あまりにも真っ直ぐな返事だった。
ありすは一瞬だけ言葉を失う。
「……そっか」
小さく息を吐く。
「じゃあ、またね」
「うん」
二人は別々の方向へ歩き出す。
夜道。
少しずつ距離が開いていく。
それなのに。
さっきまでより、遠く感じなかった。
(……少しずつでいい)
距離も。
この関係も。
二人で見つけていけばいい。




