第三十八話 温度差
千翠の腕の中。
強くはない。
でも、離れられない。
ありすの呼吸が、少しだけ乱れている。
そのとき。
「ありす」
すぐ近くで、声。
ありすの視線が揺れる。
「……何」
短く返す。
千翠が少しだけ考える。
ありすを見る。
さっき抱き寄せた距離を思い返すみたいに。
「……まだ少し足りない」
小さく呟く。
ありすが眉を寄せる。
「……何が」
「距離」
一拍。
「近い方が落ち着く」
少しだけ考えてから。
「だから」
一拍。
「……キスしてもいい?」
思考が止まる。
「……は?」
反射。
間抜けな声が出る。
(前は勝手にしたくせに……)
頭の中で、過去がよぎる。
ありすは眉を寄せる。
「なんで」
問い返す。
時間を稼ぐみたいに。
千翠は少しだけ考える。
でも。
「ありすに、もう少し触れたい」
言い切る。
迷いも、照れもない。
ただの事実みたいに。
ありすの心臓が強く鳴る。
逃げたい。
でも。
逃げたくない。
一歩だけ、体を引く。
腕の中から外れる。
距離を取る。
やっと。
「……ダメに決まってるでしょ」
言う。
ちゃんと。
理性で。
でも。
声が少しだけ弱い。
千翠は動かない。
その場で、ありすを見る。
「嫌なら、しない」
確認。
ありすは言葉に詰まる。
「……そういう問題じゃない」
続けようとして。
止まる。
理由が、うまく出てこない。
千翠は少しだけ考える。
「さっき」
一拍。
「離れなかったから」
「嫌じゃないかと思った」
事実を突く。
視線が、外せない。
ありすの思考が止まる。
(……それは)
否定できない。
言葉が出ない。
千翠は、その反応を見ている。
「……一回だけ」
ありすは気づけば、そう答えていた。
すると、ゆっくりと千翠の手が伸びる。
ありすの頬に触れる。
軽く。
でも、確実に。
ありすの呼吸が止まる。
理性が、最後に踏みとどまる。
(……やめないと)
分かっている。
でも。
体が動かない。
視線が、逸らせない。
「……いいの?」
一瞬。
本当に短い時間。
その間に。
何も言えなかった。
それが、答えになる。
千翠が距離を詰める。
ありすは目を閉じる。
わずかに。
本当に、わずかに。
自分からも、前に寄る。
その瞬間。
唇が触れる。
ほんの数秒。
時間が止まったみたいに、何も動かない。
やがて。
わずかに離れる。
近いまま。
でも、さっきとは違う。
空気が変わっている。
ありすの呼吸が浅い。
整わない。
視線を合わせられない。
少しだけ下を向く。
(……何、これ)
頭が追いつかない。
さっきまでと同じ場所。
同じ距離。
でも。
全然、違う。
言葉が出てこない。
そのとき。
「……うん」
千翠の声。
ありすがわずかに顔を上げる。
目が合う。
千翠は、いつも通りだった。
特に変わった様子はない。
息も乱れていない。
ただ、少しだけ考えている顔。
「さっきより、いい」
一拍。
「さっきよりは、足りてる」
淡々と。
評価みたいに言う。
ありすの思考が止まる。
(……は?)
一瞬、理解が追いつかない。
今の、それ。
そういう——
でも。
千翠にとっては、ただの“変化の確認”。
それ以上でも、以下でもない。
ありすの胸の奥が、強く揺れる。
さっきとは違う意味で。
「……何それ」
やっと出た言葉。
少しだけ、掠れる。
千翠は首を傾ける。
「嫌だった?」
純粋な確認。
悪気はない。
ありすは言葉に詰まる。
ダメじゃない。
むしろ。
でも。
そういう問題じゃない。
なのに。
それをどう説明していいか、分からない。
「……そういうことじゃなくて」
絞り出す。
でも、続かない。
千翠は少しだけ考える。
ありすの反応を見ている。
観察するみたいに。
「どう違う?」
まっすぐ聞く。
逃げ場がない。
ありすの心臓が強く鳴る。
言わないといけない。
何か。
でも。
(……分かんない)
自分でも、分かっていない。
ただ。
はっきりしているのは。
さっきのことで、何かが決定的に変わったということ。
そして。
その“変わり方”が、千翠とズレている。
その違和感。
それが、一番大きい。
ありすはゆっくり息を吐く。
視線を逸らす。
「……もういい」
小さく言う。
考えるのを、一旦やめるみたいに。
千翠は特に気にした様子もない。
「そっか」
あっさり引く。
それだけ。
何も追わない。
何も変わらない。
その態度が。
逆に、ありすの中で引っかかる。
(……何もないの?)
さっきのことが。
自分の中では、こんなに大きいのに。
千翠の中では、ただの一つの“行動”で終わっている。
その事実。
それが、じわじわと効いてくる。
ありすは、少しだけ距離を取る。
「……私、戻る」
千翠が時計を見る。
「本部?」
「うん」
一拍。
「仮眠室で寝る」
千翠は頷く。
「分かった」
引き止めない。
それが、ありすには少し意外だった。
(……止めないんだ)
そう思った自分に、ありすは少しだけ眉を寄せる。
(……何を期待してるの)
自分でも分からない。
ただ。
さっきまで近かった距離が、急に遠くなったような気がした。
「……じゃあ」
「うん」
千翠はいつも通りだった。
ありすはバッグを取る。
玄関の前まで行く。
靴を履く。
一度だけ、振り返る。
千翠がこちらを見ている。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ」
それだけ。
ドアが閉まる。
一人になった廊下で。
扉を背にして、ありすはしばらく動かなかった。
(……キス、した)
改めて考えると、顔が熱くなる。
でも。
それ以上に引っかかっているのは。
千翠の言葉だった。
『さっきよりは、足りてる』
(……何なの、それ)
千翠にとっては。
ただ、何かが「足りた」というだけなのかもしれない。
でも。
(私にとっては、違う……)
たぶんもう。
「知りたい」だけじゃない。
そのことに気づいてしまった。
ありすは小さく息を吐いた。
⸻
朝。
仮眠室のカーテンの隙間から、光が差している。
ありすは目を開ける。
見慣れた天井に安心する。
(……本部)
昨夜のことが、頭を過ぎる。
千翠の部屋。
抱きしめられたこと。
そして。
——キス。
心臓が、少しだけ強く鳴る。
ありすは枕に顔を埋める。
(……最悪)
何が最悪なのか、自分でも分からない。
ただ。
一晩寝れば忘れられると思っていた。
全然、忘れられない。
むしろ。
一人になったことで、余計に鮮明だった。




