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第三十七話 距離の揺れ②

 深夜。


 マンションのエントランス。


 自動ドアが静かに開く。


 ありすは一歩踏み入れて、足を止めた。



(……ここ?)



 視線が上にいく。


 高い天井。


 無駄に広いロビー。


 静かすぎる空間。


 明らかに、場違い。



「近いでしょ」



 後ろから声。


 千翠はいつも通りの顔。


 ありすは小さく息を吐く。



「近いとかの問題じゃないでしょ……」



 小声で返す。


 でも。


 もう来てしまっている。


 エレベーターに乗る。


 無言。


 階が上がる。


 静かな機械音。


 やがて止まる。


 扉が開く。


 廊下も静かだった。


 人の気配がない。


 千翠が迷いなく歩く。


 一つの扉の前で止まる。


 カードキーでロックを解除する。



「どうぞ」



 軽い調子。


 ありすは一瞬だけ躊躇う。


 でも。


 入る。





 部屋の中。


 一歩踏み入れて、また止まる。



(……何これ)



 広い。


 無駄に。


 リビングだけで、ありすの想像を超えている。


 でも。


 何もない。


 視線が動く。


 ベッド。


 テーブル。


 それだけ。


 ソファもない。


 テレビもない。


 装飾もない。


 生活の痕跡が、ほぼない。


 静かすぎる。


 空っぽに近い。



「……何もないね」



 思わず言う。


 千翠は靴を脱ぎながら答える。



「困ってないから」



 即答。


 迷いなし。


 ありすはゆっくり中に入る。


 床がやけに広い。


 音が響く。


 キッチンを見る。


 綺麗すぎる。


 使った形跡がない。



(……料理してない)



 冷蔵庫。


 視線だけ向ける。


 開けなくても分かる。


 たぶん、入ってない。


 頭の中で、資料が重なる。


 住所。


 年齢。


 生活情報。


 でも。



(……こんなの、書いてなかった)



 当然だ。


 書けるものじゃない。


 “空っぽさ”なんて。



「ありす?」



 千翠が近くに来る。


 距離が、近い。


 逃げ場がない。


 周りに人もいない。


 静かすぎる。



「……何してるの、普段」



 ぽつりと聞く。


 確認のつもり。


 でも。


 少しだけ踏み込んでいる。


 千翠は少し考える。



「仕事」



 即答。



「それ以外」



 続ける。


 千翠は、また少し止まる。



「……特にない」



 あっさり。


 ありすは言葉を失う。


 視線が、部屋に戻る。



(……本当に、何もない)



 東條から渡された資料には、経歴もあった。


 施設の記録も。


 訓練の記録も。


 千翠が何をしてきた人間なのかを示すものも。


 でも。


 ここに何があるのかは、書かれていなかった。


 何を食べて。


 何を見て。


 誰と過ごして。


 何を考えて生きているのか。


 そんなことは、一つも。


 ありすは部屋を見回す。


 そして。


 ふと、口を開く。



「……じゃあ、普段は何してるの」


「さっき聞いたよ」


「仕事以外で」


「……だから、特にない」


「友達は?」


「いない」


「休日は?」


「仕事がなければ、ここにいる」


「好きなものは?」



 千翠が少しだけ黙る。



「……分からない」



 ありすは眉を寄せる。



「分からないって……」


「考えたことがないから」



 一拍。


 千翠はありすを見る。


 いつもの、感情の読めない目。


 でも。


 ほんの少しだけ、不思議そうだった。



「なんで、そんなこと聞くの?」


「……知りたいから」



 ありすは答える。


 自分でも驚くほど、自然に。



「あんたのこと」



 千翠が黙る。


 しばらく。


 ありすを見ている。


 それから。



「……そう」



 小さく呟く。


 何かを考えるように。



「ありすは、変だね」


「……何が」


「みんな、俺に何ができるかは聞く」


 一拍。


「でも、ありすは俺が何を考えてるのか聞く」



 ありすの胸が、わずかに詰まる。



「……それが、そんなに変?」


「分からない」



 千翠は少しだけ目を伏せる。



「でも」


 一拍。


「嫌じゃない」



 ありすは黙る。


 千翠はしばらく、ありすを見ている。



「……ありすは」


「なに」


「俺のこと、まだ知りたい?」


「……うん」


「そっか」



 千翠は少しだけ考える。



「じゃあ」


「一つ、確認してもいい?」


「……なに」


「この前より」


 一拍。


「もう少し近づいても、嫌じゃない?」



 ありすは目を瞬かせる。



(……確認?)



 千翠は答えを急かさない。


 ただ待っている。


 その様子があまりにも真面目で、ありすは思わず息をつく。



「……少しなら」



 千翠は小さく頷く。


 一歩だけ近づく。


 前より少し近い距離。


 そこで止まる。


 じっと見ている。



「……どう?」


「分からない」



 正直に答える。


 でも、離れない。


 もう一歩。


 ありすは反射的に肩に力を入れる。


 逃げようとはしない。


 千翠はその反応を見て、小さく考え込む。



「まだ違う」



 ぽつりと呟く。



「……何が」


「落ち着かない理由」


 一拍。


「たぶん、ここじゃない」



 そう言ってから、少しだけ迷う。


 本当に珍しく。


 どうするか考えている。


 やがて。



「……抱きしめてもいい?」



 ありすの思考が止まる。



「……は?」


「確認したい」


「何を?」


「分からない」


 一拍。


「でも、そうしたら分かる気がする」



 意味は分からない。


 でも、嘘をついている顔じゃない。


 ありすは困ったように目を伏せる。


 断れば終わる。


 そう分かっている。


 なのに。



「……少しだけ」



 小さく答えてしまう。


 千翠は静かに頷いた。


 腕が伸びる。


 恐る恐るというより、壊れ物を扱うみたいに。


 ゆっくりと、ありすを抱き寄せる。


 強くはない。


 本当に触れるだけの距離。


 部屋が静かになる。


 数秒。


 誰も動かない。


 千翠が、小さく息を吐く。



「……これだ」



 独り言みたいに呟く。



「ありすが近くにいると」


「一番落ち着く」



 その言葉に。


 ありすの呼吸が止まる。



「……なんで?」


「分からない」



 千翠は素直に答える。



「……ありすは、俺のことを知ろうとするでしょ」


「……うん」


「それが、嫌じゃない」


「……」


「だから、近くにいてほしいのかもしれない」



 千翠はそこで、ほんの少しだけ力を抜いた。


 肩から。


 腕から。


 張っていたものが、ゆっくりほどけていく。


 数ヶ月。


 こうしてありすの近くにいることはなかった。


 仕事で顔を合わせることも。


 声を聞くことも。


 以前のように、隣に立つことも。


 なかった。


 ただ。


 こうして抱きしめてみて。


 初めて分かる。


 ずっと、何かが足りなかったのだと。


 千翠が小さく息を吐く。



「……少し、楽」



 千翠は目を閉じる。


 ほんの数秒。



「……前より、落ち着く」


 一拍。


「数ヶ月、会ってなかったからかな」



 自分で言ってから。



「……でも、それだけじゃない気がする」



 千翠自身も、その理由を知らない。


 ありすは何も返せなかった。


 心臓だけが、うるさいくらい鳴っていた。



(……近い)



 分かっている。


 でも。


 離れない。


 離れられない。


 周りに誰もいない。


 止めるものもない。


 ありすの手が、わずかに動く。


 押し返そうとして。


 止まる。


 一瞬。


 そのままになる。


 拒否しない。


 できない。


 その数秒。


 千翠が、小さく呟く。



「……離れないんだ」



 事実を突く。


 逃げ場がない。


 ありすの心臓が強く鳴る。


 でも。


 今は、振り払えない。


 この距離を。


 この空間を。



(……ダメだ、これ)



 頭では分かっている。


 でも。


 離れたいとは、思わなかった。


 千翠のことを知りたい。


 そう思って、ここまで来た。


 その答えが。


 こんなに近いところにあるなんて。


 ありすには、まだ分からなかった。


 静かな部屋。


 何もない空間。


 その中で。


 二人だけが、近すぎる距離で存在していた。

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