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第三十六話 距離の揺れ①

 夜。


 捜査三課。


 室内は、ほとんど人がいなくなっていた。


 事件の大枠は固まった。


 残っているのは、報告書だけ。


 ありすはデスクに向かっていた。


 キーボードの音だけが、静かに響く。


 背後。


 気配は、ずっとある。


 何も言わない。


 でも、離れない。



(……まだいる)



 分かっている。


 振り向かないだけ。


 一行、打つ。


 また一行。


 ふと、手が止まる。



「……まだ帰らないの」



 振り向かないまま言う。



「うん」



 すぐ後ろから返事。


 近い。



「終わるまでいるよ」



 当たり前みたいに言う。


 ありすは小さく息を吐く。



「なんで」



 短く。


 千翠は少しだけ間を置く。


 考える。


 でも。


 すぐに答える。



「分からない」


 一拍。


「でも、今日は帰る気にならない」


「……何それ」


「うん」


「……終わったら?」


「帰る」



 そう答えたあと。


 千翠は少しだけ黙る。


 帰ればいい。


 それで何も問題はない。


 なのに。


 ありすが帰ったあと、一人になることを想像すると、少しだけ違和感があった。



「……どうしたの」


「ううん」


 一拍。


「終わったら、もう少し一緒にいたい」



 ありすが振り向く。



「……なんで」


「分からない」



 さっきと同じ言葉。


 ありすは何も返さない。


 否定もしない。


 ただ、作業に戻る。





 時間が過ぎる。


 キーボードの音だけ。


 時計の針が進む。


 背後の気配は、変わらない。


 千翠は何も言わない。


 ただ。


 そこにいる。


 ありすも、もう振り返らなかった。


 やがて。


 最後の一行を打ち終える。


 小さく息を吐く。



「……終わった」



 その言葉に。


 すぐ反応が返る。



「じゃあ帰ろう」



 自然に。


 ありすは振り向く。



「帰りたいけど」


 一拍。


「もう終電ない」



 千翠が時計を見る。


 少しだけ考える。


 帰る。


 それが普通。


 でも。


 さっきまで、もう少し一緒にいたいと思っていた。


 数ヶ月。


 以前のように会うことはなかった。


 今日、久しぶりに近くにいる。


 だからなのか。


 理由は、まだ分からない。


 ただ。


 もう少し、この時間が続けばいいと思った。



「じゃあ」


 一拍。


「うち来る?」



 軽く言う。


 ありすの思考が止まる。



「……は?」



 間抜けな声が出る。



「寝るところあるから」


「仮眠室でも寝られるけど」


「眠れる?」


「……」


「課長になってから、ちゃんと寝てないでしょ」



 千翠はそのまま続ける。



「うち、ここから近いよ」



(……近い?)



 ありすの頭に、東條から渡されたファイルが浮かぶ。


 住所。


 当然、そこにも載っていた。


 千翠が、ありすの顔を見る。



「……知ってるでしょ?」


「……」


「俺のこと、調べたんだよね」



(……そこまで分かってるの?)



「……うん」


「どうだった?」


「……まだ分からない」


「そっか」



 千翠は少しだけ笑う。



「じゃあ、もう少し調べればいいよ」


「……何それ」


「知りたいんでしょ?」


「……」


「だったら、俺に聞けばいいよ」


 一拍。


「うちに来たほうが、話しやすいんじゃない」


「……本気で言ってる?」



 千翠は少し考えてから。



「うん」


「来てくれたら嬉しいと思う」



 その言い方。


 ありすの言葉が止まる。


 一瞬。


 間が空く。


 視線がぶつかる。


 逃げ場がない。



(……なんで)



 理由が分からない。


 でも。


 断りきれない。


 自分でも分かる。


 その状態が、一番厄介だ。



「……嬉しいって何」


「分からない」


 一拍。


「でも、他の人には言わないと思う」


「なんでかは、まだ分からない」


「来るかどうかは、ありすに任せる」



 曖昧な答え。


 でも。


 嘘じゃない。


 一拍。


 ありすは目を逸らす。


 小さく息を吐く。



(……課長になったばかりなのに)


(仕事で呼んで)


(そのまま家まで行くの?)



 完全に納得したわけじゃない。


 でも。


 もう分かっている。



(断ろうと思えば、断れる)



 断る理由なら、いくらでもある。


 でも。


 帰りたいわけじゃなかった。


 千翠と一緒にいることを、嫌だとは思わなかった。



(……何それ)



 自分で考えて、嫌になる。


 それでも。



「……じゃあ、お邪魔する」



 小さく言う。


 千翠はすぐに頷く。



「うん」



 あっさり。


 それ以上は何も言わない。


 でも。


 さっきまで残っていた、わずかな引っ掛かりだけが静かに消えていた。



「行こう」



 自然に言う。


 距離が近いまま。


 当たり前みたいに。


 ありすは立ち上がる。


 バッグを取る。


 電気を落とす。


 部屋を出る。


 廊下。


 夜の静けさ。


 二人分の足音。


 並んで歩く。


 少しだけ近い距離で。



(……何やってんだろ)



 心の中で思う。


 でも。 


 足は止まらない。


 そのまま、外へ出た。

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