第三十五話 扱うということ
先日の人事異動で、二人はそれぞれ新しい役職に就いていた。
橘は捜査二課長。
ありすは捜査三課長。
これまで所属していた捜査一課を離れ、それぞれ別の課を率いる立場になった。
捜査一課が殺人や強行犯など重大事件を担当するのに対し、二課は詐欺や横領などの知能犯事件、三課は窃盗や侵入盗などの財産犯を扱う。
管理職一年目。
しかも慣れ親しんだ一課ではなく、別の課の指揮を任されるとは思っていなかった。
⸻
「まだ慣れねぇな」
橘がコーヒーを片手に笑う。
「二課の課長なんて、想像したこともなかった」
「……私も」
ありすが苦く笑う。
「三課なんて考えたこともなかった」
「東條さんなりの配慮なんじゃねぇかな」
「配慮?」
「殺人や強行は、課長が判断を間違えれば人が死ぬ」
「一年目で一課の課長は荷が重いだろ」
一拍。
「特にお前は」
「……何それ」
「無理するから」
「……」
ありすは何も言えない。
否定できない。
橘は肩をすくめる。
ありすは小さく息を吐いてから口を開く。
「でも」
「扱う事件は違うけど」
一拍。
「現場を見るってことは変わらない」
橘が頷く。
「ただ今度は、自分で全部決めなきゃならねぇ」
誰を動かすか。
何を優先するか。
そして——
「神谷を呼ぶかどうかも、だな」
一瞬だけ空気が止まる。
ありすは小さく息を吐いた。
「……うん」
短く返す。
それだけで十分だった。
⸻
夕方。
捜査三課。
室内は慌ただしかった。
ホワイトボードには被害者情報。
現場写真。
関係者リスト。
どれも埋まりきっていない。
「決め手がないですね……」
若い刑事が呟く。
小さく頷く者が何人かいる。
証拠はある。
だが、繋がらない。
犯人に届かない。
ありすは腕を組んで、ボードを見ていた。
視線は動かない。
思考だけが進む。
(……足りない)
何か一つ。
決定的な視点。
それがない。
一瞬だけ、思考が止まる。
浮かぶ言葉。
『今後は、お前の判断で使え』
東條の声。
無意識に、息を吐く。
(……使う)
その言葉の重さを、もう分かっている。
視線はボードのまま。
逃げ場はない。
決めるのは、自分だ。
一拍。
「……呼ぶ」
小さく言う。
近くにいた部下が反応する。
「神谷、ですか?」
確認。
ありすは短く頷く。
それだけで通じる。
部下がすぐに動く。
指示は簡潔。
余計な説明はない。
⸻
数分後。
扉が開く。
「……いた」
軽い声。
空気が、わずかに変わる。
神谷千翠。
いつもと同じ調子で入ってくる。
視線が室内を一周する。
状況を把握するまでが早い。
「窃盗、だね」
確認。
ありすが頷く。
「情報は?」
距離が近い。
自然に詰めてくる。
ありすは一瞬だけ間を置く。
それでも。
淡々と説明する。
必要な情報だけ。
無駄なく。
千翠は黙って聞く。
視線は、ボードではなく。
ありすに向いている。
情報ではなく。
先に、ありすを見る。
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一通り終わる。
数秒の沈黙。
そして。
「犯人、この中にいないね」
一瞬、空気が止まる。
その後すぐに部下がざわつき始める。
「え?」
「でも証言は……」
空気が乱れる。
「静かに」
一言だけ。
空気が止まる。
「続き、お願い」
ありすは視線を千翠に向ける。
千翠が続ける。
「……関係者の分け方、違う」
淡々と続ける。
ボードに近づく。
ペンを取る。
勝手に書き換える。
止める者はいない。
線が引かれる。
名前が移動する。
「この人」
一人を指す。
「被害者と“関係がある側”じゃない」
一拍。
「“関係を作ろうとした”だけ」
言い切る。
ありすはボードを見る。
思考が一気に動く。
繋がる。
今までの前提が崩れる。
(……そうか)
「……つまり、接点を作ったのは犯人じゃない?」
「そう」
視点が反転する。
千翠は続ける。
「この人、直接やってない」
一拍。
「でも原因」
簡潔。
それで十分。
ありすは一歩前に出る。
ボードを見る。
そして。
「裏、洗って」
ありすが指示を飛ばす。
「はい!」
部下たちが一斉に動き出す。
電話を取る者。
資料を持って走り出す者。
さっきまで止まっていた空気が、一気に流れ始める。
千翠は、その様子を静かに見ていた。
一拍。
「……ちゃんと動くね」
ありすが視線だけ向ける。
「私が動けって言ったから」
短く返す。
千翠は部下たちをもう一度見る。
考えるように、少しだけ間を置いて。
「……ありすが判断して、みんなが動く」
「そういう役割なんだね」
納得したように、小さく呟く。
その中で。
ありすは横を見る。
千翠がいる。
何もしていないようで。
全部動かした側。
一瞬、目が合う。
千翠が少しだけ首を傾ける。
「これで足りる?」
確認。
いつもと同じ調子。
でも。
ありすはわずかに言葉に詰まる。
(……使った)
はっきりと自覚する。
自分の判断で。
この人間を。
一拍。
視線は逸らさない。
「……うん」
短く答える。
それが今の答え。
千翠はそれを聞いて、ただ頷く。
「そう」
それだけ。
評価も感情もない。
ただの確認。
そして。
自然に隣に立つ。
近い距離。
でも。
さっきまでとは意味が違う。
ありすはその距離を感じながら。
もう一度、ボードを見る。
事件は動き出している。
自分が動かした。
その起点は、隣にいる。
(呼ぶだけじゃない)
(止めるのも)
(任せるのも)
(全部、私が決める)
(……これが)
一拍。
(“扱う”って、こういうことか)
能力だけじゃない。
距離だけでもない。
判断も。
責任も。
全部含めて。
ありすはもう一度、隣を見る。
神谷千翠がいる。
そして。
ここに呼ぶと決めたのは、自分だった。




