第三十九話 距離の遮断①
午前。
捜査三課。
いつも通りの空気。
いつも通りの音。
電話。
キーボード。
人の声。
全部、同じ。
ただ一つ。
ありすだけが、違った。
デスクに向かっている。
画面を見ている。
手も動いている。
でも。
中身が伴っていない。
思考が、何度も途切れる。
(……何やってんだろ)
ふと浮かぶ。
昨日の夜。
部屋。
距離。
——キス。
指が止まる。
数秒。
そのまま動かない。
(……違う)
首を小さく振る。
強制的に戻す。
仕事に。
現実に。
でも。
戻りきらない。
その状態が、一番厄介だった。
そのとき。
「七沢課長」
部下の声。
ありすは顔を上げる。
「はい」
短く返す。
「この件なんですが——」
説明が入る。
ありすは頷く。
理解はできる。
判断もできる。
でも。
ほんの少しだけ、遅れる。
そのズレを、自分で分かっている。
(……ダメだな)
仕事に私情は持ち込まない。
それが前提。
なのに。
今は、崩れている。
⸻
それから二週間ほど経った。
会議室。
捜査二課。
橘が腕を組んでいる。
その前で。
千翠が立っている。
「……お前、最近三課呼ばれてないらしいな」
橘が言う。
何気ない確認のようで。
視線は鋭い。
「そうだね」
千翠はあっさり答える。
特に気にしていない様子。
「七沢とも会ってないのか」
「会ってない」
短い返答。
嘘はない。
橘は少しだけ目を細める。
(……やっぱりか)
何かを察する。
でも、それ以上は踏み込まない。
「……まあいい。続き、頼む」
それだけ言う。
千翠は頷く。
⸻
その数時間後。
報告書を提出し終えたありすが、資料を抱えたまま廊下を歩いていた。
次の打ち合わせまで、少しだけ時間がある。
頭の中は、まだ事件の整理で埋まっていた。
向こうから足音が聞こえる。
一定の速さ。
迷いのない歩き方。
ありすは何気なく顔を上げる。
そして。
足が止まりかけた。
千翠だった。
(……まずい)
ここ二週間。
ありすは、千翠と会わないようにしていた。
三課で呼ぶ必要のある仕事は、できるだけ他の人間に回した。
廊下ですれ違いそうになれば、進路を変えた。
休憩の時間も、少しずらした。
もちろん。
千翠に気づかれない程度に。
そうしていれば。
このまま、何事もなかったことにできると思っていた。
でも。
今は、目の前にいる。
しかも。
千翠は、ありすを見つけると。
当たり前のように、こちらへ歩いてくる。
まるで。
二週間の空白なんて、何もなかったみたいに。
距離が縮まる。
ありすは反射的に、一歩だけ後ろへ下がりそうになる。
でも。
逃げるには、もう遅い。
千翠はいつも通りの速さで近づいてくる。
そして。
「ありす」
名前を呼ぶ。
何も変わらない調子で。
ありすは小さく息を飲む。
「……何」
できるだけ平静に返す。
千翠は少しだけ首を傾けた。
「最近、三課呼ばれなかった」
一拍。
「廊下にもいなかった」
「だから会えてなかった」
淡々とした報告みたいに言う。
悪気も、含みもない。
ただの事実。
ありすは返す言葉を探す。
その間にも。
千翠は自然にもう一歩近づく。
その瞬間。
ありすの中ではっきりと線が引かれた。
(……ダメ)
ここで止めないと。
この前の続きを、また繰り返してしまう。
「……待って」
小さく声が出る。
千翠の足が止まる。
千翠は何も言わない。
ただ、ありすを見る。
何が違ったのかを考えるように。
千翠は少しだけ首を傾ける。
「来ない方がいい?」
純粋な疑問。
悪気はない。
ありすは一瞬、言葉に詰まる。
(……ダメだ)
このままでは。
また、あの夜と同じになる。
それが、分かっている。
だから。
「……そうじゃない」
小さく言う。
肯定してしまう自分を、理解した上で。
そのあと。
視線をまっすぐ向ける。
逃げない。
「でも」
声を落とす。
「しばらく、来ないで」
はっきり言う。
少し強めに。
初めて、千翠の動きが止まる。
一瞬だけ。
ほんのわずかに。
その場で止まる。
今までなら、そのまま近づいていたはずなのに。
「……呼ぶまで」
ありすが続ける。
目を逸らさない。
「近くに来ないで」
言い切る。
完全に線を引く。
空気が変わる。
千翠は、その言葉をそのまま受け取る。
数秒。
何も言わない。
ただ、考える。
そして。
「……了解」
小さく言う。
あっさりと。
でも。
完全には理解していない顔。
そのまま。
一歩、下がる。
距離を取る。
そして。
「呼ばれたら行く」
それだけ言う。
ありすは何も返さない。
返せない。
千翠は、そのまま背を向ける。
静かに歩き出す。
ありすは、しばらく動かない。
(……これでいい)
(これで、いいはず)
そう思った。
なのに。
胸の奥が、少しだけ痛む。
千翠が一歩下がったとき。
自分でそう言ったくせに。
その距離が、思っていたより遠かった。
その感覚だけが。
どうしても、消えなかった。




