第三十三話 理解の外側②
翌朝。
警察本部。
まだ空気の張り詰めた時間帯。
人の動きも規則的で、無駄がない。
ありすは廊下を歩いていた。
足音がやけに響く。
目的地は分かっている。
刑事部長室。
扉の前で止まる。
軽く息を整える。
ノック。
「入れ」
短い声。
ありすは扉を開ける。
「失礼します」
中に入る。
広い。
だが、無駄がない。
机の向こう。
東條が座っている。
視線が上がる。
一瞬で、空気が固定される。
「七沢警部か」
確認のような言い方。
「はっ」
敬礼。
東條は軽く顎を引く。
「座れ」
指示。
ありすは従う。
ソファに腰掛ける。
背筋は伸びたまま。
沈黙。
先に口を開いたのは東條だった。
「最近の業務についてだが」
淡々とした声。
「問題なく遂行していると報告を受けている」
「はい」
事務的なやり取り。
だが。
それが本題ではないことは、分かっている。
「来期の人事についても、検討段階に入っている」
「……希望はあるか」
視線が向く。
まっすぐに。
ありすは迷わない。
「……捜査課に残りたいと考えています」
即答。
東條はわずかに目を細める。
「理由は」
ありすは迷わない。
「捜査課で指揮を執りたいと考えています」
一拍。
「現場を理解したまま指揮を執れる人間でありたいと考えています」
「なるほど」
東條は椅子に深く背を預ける。
しばらく、ありすを見つめたまま動かない。
沈黙だけが流れる。
「一つ確認する」
「その理由に、神谷千翠は含まれるか」
空気が止まる。
核心。
ありすの指先が、わずかに動く。
だが。
視線は逸らさない。
「……ありません」
はっきり言う。
嘘ではない。
でも。
完全に、ではない。
東條は何も言わない。
ただ、見ている。
評価するように。
測るように。
ありすは続ける。
「ただ」
一瞬だけ間を置く。
それでも、言う。
「東條刑事部長は、彼の“管理者”であると聞いています」
空気がわずかに変わる。
だが。
崩れはしない。
「……それがどうした」
感情のない声。
ありすは踏み込む。
「彼が何者なのか、教えていただけませんか」
直球。
東條の視線がわずかに鋭くなる。
「……その質問は」
「何のためだ」
ありすは引かない。
「現場で適切に運用するためです」
はっきりと言い切る。
言葉にした瞬間。
自分でも分かっていた。
(……それだけじゃない)
知りたい。
ただ、それだけだった。
東條は椅子にもたれた姿勢のまま、わずかに目を細めた。
「私は、これまで彼と最も多く接してきました」
一拍。
「彼は現場で結果を出しています」
「一方で、現場の人間との連携に問題がある」
「私も含め、扱いにくさを感じている者は多い」
事実だけを並べる。
感情を挟まない。
だが。
完全に業務でもない。
「現場で能力を発揮させるためにも、背景を把握しておく必要があります」
一拍。
「それを理解した上で扱うべきだと考えています」
言い切る。
静かに。
東條は黙る。
視線を外さない。
数秒。
やがて。
わずかに口角が上がる。
(……なるほど)
「……それだけか」
ありすの指が、わずかに動く。
「……はい」
「そうか」
東條は、それ以上追及しなかった。
「つまり」
一拍。
「運用したい、と」
確認。
ありすは一瞬だけ間を置く。
そして。
「……はい」
肯定する。
迷いはない。
東條はゆっくりと頷く。
「……いいだろう」
短く言う。
「検討しておく」
それだけ。
だが。
十分だった。
「もう下がっていい」
ありすは立ち上がる。
敬礼。
「失礼します」
踵を返す。
扉に向かう。
手をかける。
そのとき。
「七沢警部」
呼び止められる。
一瞬で振り向く。
「はい」
東條は椅子に座ったまま。
だが。
さっきとは少しだけ違う目で見る。
「一つだけ忠告しておく」
一拍。
「……理解しようとするな」
「お前は刑事だ」
「必要なものだけ見ろ」
それだけ言う。
説明はない。
だが。
十分すぎる圧。
ありすは、ほんの一瞬だけ止まる。
それでも。
すぐに。
「……承知しました」
ほんのわずかにだけ。
視線が揺れる。
それでも、逸らさない。
扉を開ける。
外に出る。
静かに閉める。
廊下。
同じ景色。
でも。
さっきとは違う。
(……理解しようとするな、か)
言葉が残る。
足は止まらない。
でも。
(……それでも、知りたい)
神谷千翠という人間を。




