第三十ニ話 理解の外側①
夜。
捜査一課。
人の気配はほとんどない。
ありすは自分のデスクに座っていた。
静かなフロアに、キーボードの音だけが小さく響いている。
スマホが震える。
画面を見る。
橘からだった。
『施設の件、多分当たりだ』
『東條と神谷、思ってたより関係が深い』
『今、話せるか』
それだけなのに。
胸の奥がざわつく。
施設で聞いた話が頭をよぎる。
『なんで泣くの?』
あの言葉。
あの表情。
今までの千翠の言動が、少しずつ繋がっていく。
でも。
繋がるほど、分からなくなる。
(……分かった気でいた)
施設へ行ったあと。
少しだけ理解できたと思っていた。
あいつは、生まれつき人の気持ちが分からない人間なんだと。
だけど。
まだ足りない。
何か、大事なものが抜けている。
スマホを握る指に力が入る。
そのとき。
「七沢警部」
背後から声がした。
反射的に画面を閉じる。
スマホをポケットへしまってから振り返る。
「……はい」
制服警官が一礼する。
「東條刑事部長がお呼びです」
「明日の朝、刑事部長室に来てください」
一瞬だけ、呼吸が止まる。
(……このタイミング)
視線が、無意識にポケットへ落ちる。
橘から届いたばかりのメッセージ。
まだ数十秒も経っていない。
(……早すぎる)
偶然なのか。
それとも。
何か気づかれているのか。
分からない。
「……承知しました」
落ち着いた声で答え、立ち上がる。
歩き出す前に、一度だけスマホに触れる。
橘とのやり取りは、そのままだった。
⸻
非常階段。
夜風が吹き抜ける。
人気はない。
橘は壁にもたれ、ありすを待っていた。
「悪い。こっちの方が話しやすい」
ありすは頷く。
「何が分かったの」
橘はスマホを差し出した。
画面には、施設の記事や古い資料の写真が並んでいる。
「東條は昔からあの施設と関わってる」
「寄付だけじゃない」
画面を切り替える。
古い行事の写真。
東條の後ろに、小さな子どもの姿が写っている。
顔までは分からない。
「神谷かどうかは断定できねぇ」
「でも」
一拍。
「タイミングが重なりすぎてる」
ありすは黙って見つめる。
「それと」
橘は別の写真を開く。
古びた資料。
短い文章が並んでいる。
⸻
「対象識別能力 良好」
「環境適応 良好」
「指示理解 迅速」
「対人適応 問題なし」
⸻
それだけ。
説明はない。
誰の記録なのかも書かれていない。
「……これ」
ありすが小さく呟く。
「人の記録、だよね」
「ああ」
橘は頷く。
「でも、書き方がおかしい」
「人間を見るっていうより」
少し言葉を探す。
「能力を確認してるみたいなんだ」
ありすは資料から目を離せない。
施設。
東條。
そして、千翠。
頭の中で線が伸びていく。
だけど。
最後だけが繋がらない。
「……育てられたのかな」
一拍。
「それとも……」
言葉が続かない。
橘は少し考える。
「分からねぇ」
即答だった。
「ただ」
「普通の育ち方じゃない気はする」
断定はしない。
できない。
それだけだった。
静かな風が吹く。
ありすはゆっくり息を吐いた。
(……そうだったとしても)
思い浮かぶのは。
現場で淡々と話す千翠。
「分からない」と真っすぐ言う千翠。
雨の日。
肩が濡れるから、と自分を引き寄せた千翠。
(施設で育ったことも)
(東條と繋がっていたことも)
(全部、本当なのかもしれない)
(……でも)
(それだけじゃない)
(じゃあ、どうして)
(私には、あんなに近づくの)
(どうして、私のことばかり見るの)
私は目線を上げる。
目の前には、夜の街。
千翠の顔が浮かぶ。
(……分からない)
でも。
それを、知りたいと思った
過去がどうであっても。
そこだけは変わらなかった。
橘はそんなありすの横顔を見て、小さく息を吐く。
「……だから難しいんだよ」
ぽつりと漏らす。
「過去が分かったところで、今のあいつが消えるわけじゃねぇ」
ありすは黙ったまま頷く。
そのまま、階段の手すりに肘を預けて外の景色を見る。
ありすが口を開く。
「……明日、東條刑事部長に呼ばれてる」
橘の表情が少しだけ引き締まる。
「……早ぇな」
一拍。
「気をつけろ」
「向こうは、お前がどこまで知ってるか分からない」
「だから」
一瞬だけ目を合わせる。
「決めつけて話すな」
「分からないことは、分からないままでいい」
ありすはその言葉を静かに受け止める。
「……うん」
短く返す。
夜風が二人の間を通り抜けた。
明日。
何を聞かれるのか。
何を知られているのか。
まだ分からない。
ただ。
千翠のことを知ろうとした先で、
自分まで何かに見られているような気がした。




