第三十話 踏み込んだ先②
夜。
捜査一課の一角。
人もまばらな時間帯。
橘はデスクに肘をつき、資料を眺めていた。
画面には古い記事や公開資料。
東條の名前を追っても、経歴に不自然な点は見当たらない。
むしろ、綺麗すぎる。
だからこそ、引っかかる。
(……本人じゃねぇな)
視点を変える。
本人ではなく、周辺。
過去の活動。
地域との関わり。
そうして、何ページも遡ったところで指が止まる。
古い地域広報誌。
児童養護施設の行事の記事。
写真が一枚載っている。
寄付に訪れた東條。
その少し後ろ。
子どもたちの列の端に、一人だけこちらを見ている少年が写っていた。
表情がない。
年齢は十歳前後だろうか。
写真は小さく、顔までははっきりしない。
記事を読み進める。
東條の名前はある。
子どもの名前は載っていない。
(……ただの写真か)
そう思って閉じかける。
だが、その施設名に見覚えがあった。
一拍。
橘は別の記事を開く。
数年前の寄付記録。
同じ施設。
さらに別の資料。
施設関係者への支援活動。
何度も東條の名前が出てくる。
(……ずっと関わってる)
偶然にしては長い。
そこへ、ふとこの前の言葉が重なる。
『俺の“管理者”』
橘の指が止まる。
(……神谷も、ここに関係してるのか)
確証はない。
だが、線が一本につながる。
スマホを取り出す。
『東條、昔から同じ児童養護施設と継続的に関わってる。神谷の言ってた”管理者”とも繋がるかもしれねぇ』
送信。
画面を閉じる。
(……神谷、お前何者なんだよ)
答えはまだ出ない。
それでも。
ただの探偵ではないことだけは、確信に変わっていた。
⸻
翌日。
郊外。
静かな住宅地の外れ。
ありすはタクシーを降りる。
目の前には、古い建物。
児童養護施設。
看板は少し色褪せている。
深く息を吸う。
理由は、はっきりしている。
でも。
どこか、仕事とは違う感覚がある。
扉を押す。
中は静かだった。
職員に声をかける。
簡単に事情を説明する。
警察だと伝えると、対応は早い。
出てきたのは、年配の女性だった。
長くここにいる人間。
そんな雰囲気。
「昔の子のこと、ですか」
穏やかな声。
ありすは頷く。
「……神谷千翠、という名前に心当たりは」
女性は少しだけ目を細める。
記憶を辿るように。
やがて。
「ああ……」
小さく、息をつく。
「いましたね」
ありすの心臓がわずかに跳ねる。
「今はもう、記録はほとんど残っていないんですけど」
「少し、変わった子でした」
その言い方に、棘はない。
ただ、事実として。
ありすは何も言わず、続きを待つ。
「泣かない子だったんです」
静かに続く。
「転んでも、叱られても」
「でも、他の子が泣いていると、必ずそばには行くんです」
「何も言わずに、ずっと見てるんですよ」
「慰めようとしてるのか、観察してるのか……」
「私たちにも最後まで分からなくて」
ありすの中で、何かが繋がる。
今の姿と。
「あるとき、聞かれたことがあって」
女性は少しだけ笑う。
「“なんで泣くの?”って」
「悲しいからだよ、って答えたら」
「“悲しいと泣くの?“って聞き返してきたんです」
一拍。
「困ってるわけじゃないんです」
「本当に分からない、って顔で」
ありすの呼吸が、わずかに乱れる。
今の千翠と、同じだった。
「でも、不思議と怖くはなかったんですよ」
「ちゃんと、人のこと見てる子だったから」
優しい言い方。
評価でも否定でもない。
ただの印象。
「それで……」
ありすが口を開く。
少しだけ、声が低い。
「引き取られた?」
女性は頷く。
「ええ」
「……ある方が」
簡単に言う。
でも。
その“ある方”が誰かは、見当がついている。
ありすは目を伏せる。
情報は揃ってきている。
でも。
整理は追いつかない。
(……最初から)
そうだったのか。
あいつは。
今と、同じまま。
ここにいた。
ゆっくり息を吐く。
視線を上げる。
女性に向き直る。
「……ありがとうございました」
短く礼を言う。
それ以上は聞かない。
今は、これで十分だった。
⸻
外に出る。
空気が少し冷たい。
ありすはその場で立ち止まる。
すぐには動けない。
さっきの言葉が、頭に残る。
「なんで泣くの?」
今と同じ。
何も変わっていない。
(……だから、か)
理解はできる。
繋がる。
全部。
(……そうだったんだ)
今までの言葉が、少しずつ繋がる。
「分からない」
「知りたい」
「観てるだけ」
全部。
最初から。
嘘じゃなかった。
不器用だっただけなんだ。
だからといって。
全部納得できたわけじゃない。
でも。
(……だから、あんな言い方しかできなかったんだ)
神谷千翠という人間を。
初めてちゃんと見た気がした。




