第二十九話 踏み込んだ先①
捜査一課。
夕方。
人の出入りも少し落ち着いてきた時間帯。
ありすはデスクで資料に目を通していた。
ページをめくる。
内容は頭に入っている。
でも。
どこか、集中しきれていない。
(……また、っていつ)
思考が逸れる。
すぐに戻す。
そのとき。
「七沢」
橘の声。
顔を上げる。
「ちょっといいか」
いつもより低い。
ありすは一瞬だけ見る。
少しだけ、空気が違う。
「……なに」
短く返す。
橘は周囲を一度だけ見る。
人がいないのを確認してから、口を開く。
「神谷のことなんだけど」
ありすの手が止まる。
「……なに」
少しだけ低い声。
「……お前、あいつのことどこまで知ってる」
直球。
ありすは少し考える。
「……探偵、でしょ」
表の情報だけ。
橘が小さく息を吐く。
「俺もそう思ってた」
「でもたぶん、それだけじゃない」
言い切る。
ありすの視線が上がる。
「この前、ここの上層階で会った」
「……うん」
「東條刑事部長の部屋から出てきた」
一瞬。
ありすの思考が止まる。
「……は?」
素の声。
「しかもあいつ、自分で言った」
「東條は自分の“管理者”だって」
沈黙。
ありすは何も言わない。
(……“管理者”?)
何それ。
でも。
あいつなら言いそうだとも思う。
「……意味わかんない」
小さく漏れる。
「だろ」
橘も同じ温度で返す。
「最近、一課の現場、来てないだろ」
「……うん」
「二課とか三課に回されてるらしい」
橘が最近の報告書をありすの前に置く。
ありすは黙る。
ゆっくりと視線が落ちる。
ありすの指が、資料の端で止まる。
(……やっぱり)
最近、現場に出ていない。
一課にだけ。
(……なんで)
その疑問が。
思ったより深く残った。
考える。
そして。
「……“管理者”って何」
「分からん。だから俺も引っかかってる」
沈黙。
(分からない)
(でも)
(刑事部長と繋がってる)
(……しかも、それを公にしてない)
何も知らない。
千翠がどこから来て。
どうして探偵をしていて。
どうして警察に呼ばれているのか。
考えてみれば。
私は、何も知らなかった。
どうして。
あんなに人の気持ちが分からないのに。
私のことだけは、妙に見ているのか。
(……なんで)
知りたい。
ふと、そう思った。
刑事だからじゃない。
事件に関係するからでもない。
ただ。
(……知りたい)
何を?
自分でも分からない。
ただ。
あの人のことを、何も知らないままなのが嫌だった。
「……調べる」
静かに言う。
ありすは視線を落とさない。
「分からないままなの、落ち着かない」
短く付け足す。
橘の眉がわずかに動く。
「やめとけ」
即座に返す。
「相手は東條だぞ」
「……刑事部長ってだけじゃねぇ」
現実を置く。
ありすは黙って聞く。
それでも。
「……それでも」
一歩も引かない。
「知らないままにしたくない」
はっきり言う。
橘の視線が変わる。
(……そこまでか)
「……そうか」
短く。
それだけで十分だった。
橘は少しだけ笑う。
「……ほんと損な性格してるな」
ありすが顔を上げる。
「放っとけなくなる」
橘は一瞬、優しい顔でこちらを見てから。
「だから」
「一人でやるな」
言い方が少しだけ変わる。
「俺もやる」
ありすは少しだけ目を見開く。
「……いいの」
「ここまで来て放っとけるかよ」
軽く言う。
でも。
その奥は、軽くない。
ありすは小さく息を吐く。
「……ありがと」
短く。
それだけ。
橘は小さく笑う。
昔から変わらない。
ありすは、一人で抱え込む。
(だったら俺は、それを支える)
二人の間に、静かな合意ができる。
もう、後戻りはしない。




