第三話 その違和感は消えない③
鑑識の結果が出るのは、早かった。
「遺書、被害者の筆跡に似せてますけど……微妙に違います」
資料を受け取る。
「筆圧も一定すぎますね。書き直しの跡もないです」
ページをめくる。
整いすぎた線。
揺れがない。
(やっぱり)
——あの部屋と同じだ。
(整いすぎてる)
指先が、わずかに止まる。
無意識に唇へ意識が向く。
「……」
(違う)
今は仕事。
「あと——」
別の資料が差し出される。
「ペンとメモ、指紋がほぼ出てません」
「……拭き取られてる?」
「その可能性が高いです」
視線が落ちる。
(あの配置で)
(指紋がない)
ありすは小さく息を吐く。
「靴とベランダの手すりも同様です。接触痕が不自然に少ない」
「……徹底してる」
完全に、“作ってる”。
「容疑者は?」
「被害者の同僚です。直前まで一緒にいたことが確認取れてます」
「……なるほどね」
全部が繋がる。
遺書。
配置。
整いすぎた現場。
「自殺に見せたかったんだ」
小さく呟く。
「雑にやればよかったのに」
「それだとバレるからでしょ」
すぐ横から、声。
視線を向ける。
神谷千翠。
ほんの一瞬だけ、間が空く。
(……こいつ)
——さっきの感触が、蘇る。
一瞬だけ。
ほんの一瞬なのに。
(なんで)
(なんであんな距離で)
(いや違う、そうじゃなくて)
思考がまとまらない。
無理やり切る。
(今は仕事)
そのまま口を開く。
「……あんたさ」
「最初から気づいてたでしょ」
敬語が抜ける。
千翠は少しだけ目を細める。
「敬語、なくなった」
「……は?」
「今の方が話しやすい」
(いや、何で普通に話してんの私)
「……こっちが遠回りしてんの、わかってる?」
「うん」
軽い返事。
「でも、その方が自分で答えを選べるでしょ」
「……」
(……ちゃんと選べるってそういうこと)
(ていうかそれより)
一瞬、言葉が途切れる。
(なんでキスされたの)
思考がそっちに引っ張られる。
強引に戻す。
「……まあね」
短く返す。
(全然よくないけど)
そのまま資料を閉じる。
指先がわずかにずれる。
(……落ち着け)
「ありがと」
視線は合わせない。
(見たら無理)
千翠が軽く返す。
「どういたしまして」
一拍。
ほんの少しだけ間が空く。
「ということで」
軽く、続ける。
「これからもよろしくね、ありす」
一瞬。
思考が止まる。
(……は?)
今、なんて。
呼吸がわずかに乱れる。
遅れて、言葉が出る。
「……その呼び方やめて」
声が少しだけ硬い。
「なんで?」
「呼ばれたくないから」
千翠は思考を巡らせる。
視線が合わない。
返事が少し遅い。
呼吸も、少し浅い。
動揺している。
それは分かる。
でも。
仕事は止まらない。
会話も成立している。
判断も鈍っていない。
平静を装っている。
いや。
装っているというより、本当に進めようとしている。
興味深い。
だから、少しだけ確認する。
「……嫌なら呼ばない方がいい?」
「当たり前でしょ」
「……でも反応が分かりやすいんだよね」
「……は?」
「名前呼ぶと、毎回違う顔するから」
一拍。
千翠は少しだけ目を細める。
「じゃあよろしく、ありす」
一瞬、言葉を失う。
(……は?)
理解が追いつかない。
特に気にした様子もなく、視線を外す。
(……やめる気ないじゃん)
心臓が、まだ少しだけうるさい。
ほんの一瞬。
無意識に、口元に触れそうになる。
——止める。
(いやいやいや)
(何してんの)
手を下ろす。
呼吸を整える。
(……キスじゃない)
ただ、触れただけ。
(気にする意味ない)
(ないはずなのに)
消えない。
(ほんと、意味わかんない)
⸻
感情が行動を乱す。
そういう人間は多い。
でも七沢ありすは違う。
乱れたまま進む。
それが、少し珍しい。
「……また、分からない」
千翠は小さくつぶやいた。
⸻
その様子を。
橘が少し離れた位置から見ていた。
(あいつ……キスしたよな?)
ありすを見る。
平静を装っている。
でも。
(……動揺はしてる)
視線を逸らす回数。
少しだけ早い返事。
無意識に口元へ伸びかけた手。
(わかりやすいな)
昔からそうだ。
困っている時ほど、平気な顔をする。
(……嫌だったか?)
わからない。
でも。
(何も言わないんだろうな)
小さく息を吐く。
それでも。
(あいつが嫌がってるなら止める)
幼馴染っていう立場くらいは、まだ使っていいはずだ。




