第二話 その違和感は消えない②
規制線の内側。
室内は、妙に静かだった。
(……静かすぎる)
誰かが住んでいた部屋。
そのはずなのに。
なぜか、人の匂いがしない。
物が、少ないわけじゃない。
ただ——乱れていない。
机に近づく。
書類は角まで揃えられている。
ペンが一本。
メモの横に、まっすぐ。
——右側に。
指が止まる。
(……右)
「被害者、左利きだよね」
後ろにいた部下が頷く。
「はい」
「……」
視線を落とす。
(左で書いて)
(右に置く?)
やろうと思えばできる。
でも。
(わざわざ?)
違和感が、残る。
「綺麗だね、それ」
横から、軽い声。
「遺書」
視線を上げる。
神谷千翠。
「最後に書いたにしては、迷いがない」
「……」
「普通、もう少し崩れると思うけど」
それだけ言って、視線を外す。
(……迷い)
その言葉が残る。
ベッドに目を向ける。
シーツに皺はない。
人が座った跡すらない。
枕は中央。
毛布は折り目に沿って揃えられている。
スマートフォンはベッドの中央。
画面を上にして。
ベッドの縫い目と平行に。
テレビのリモコン。
エアコンのリモコン。
テーブルの端に並んでいる。
角度まで揃えて。
(……綺麗すぎる)
床。
何も落ちていない。
ゴミ箱も、底が見えるくらいほとんど空。
窓際。
カーテン。
左右、同じ幅で開いている。
まるで定規で測ったみたいに。
(……ここまで揃える?)
飛び降りる直前に。
(他にやることあるでしょ)
思考が、少しずつ形になる。
ベランダに出る。
ベランダに似つかわしくないヒール。
左右ぴったり。
ベランダの縁と平行に。
「……揃えてる」
小さく、呟く。
(落ちる前に)
(こんなに綺麗に揃える?)
遺書。
ペン。
スマホ。
カーテン。
靴。
全部が、同じ方向を向いている。
(……違う)
胸の奥で、何かが噛み合う。
室内に戻る。
もう一度、全体を見る。
(綺麗なんじゃない)
(片付いてるんじゃない)
(誰かが——)
(整えてる)
その瞬間、線が繋がる。
「……おかしくない?」
振り返る。
橘がこちらを見る。
「何が」
「全部」
視線を上げる。
「綺麗すぎる」
遺書も。
靴も。
カーテンも。
「自殺にしては、“整いすぎてる”」
言葉にした瞬間、確信に変わる。
「……これ、違う」
一歩、前に出る。
「誰かに“そう見えるように”させられてる」
「——自殺じゃない可能性ある」
静かに、言い切る。
空気が変わる。
「他殺の可能性、洗い直して」
声が落ちる。
でも迷いはない。
「鑑識、再チェック。遺書の筆圧と筆跡、精査して」
「了解!」
現場が動き出す。
その中心に、ありすがいる。
⸻
――少しだけ、静かになる。
「ちゃんと選べるんだね」
すぐ近く。
振り向くより先に、距離が詰まる。
「何の話ですか」
「今の判断」
低い声。
「自殺って決めつけなかった」
「……それが仕事なので」
「うん」
千翠は軽く頷く。
「いい判断だったと思う」
少しだけ間。
「……人って、強い感情が動くと反応が分かりやすくなるんだよね」
「……は?」
「驚いた時とか、怒った時とか」
視線が合う。
まっすぐ。
観察するみたいに。
「だから――」
一歩、近付く。
「ちょっと」
「動かないで」
次の瞬間。
視界が近づく。
何かを考えるより先に、柔らかい感触が触れた。
近い。
近すぎる。
唇。
——唇?
一瞬、思考が止まる。
数秒遅れて、現実が追いつく。
目の前にあるのは、神谷千翠の顔だった。
近い。
近すぎる。
何が起きたのか理解するより先に、距離が離れる。
「……っ」
息がわずかに乱れる。
一歩、下がる。
遅れて、言葉になる。
「……は?」
やっと出た声。
千翠は少しだけ首を傾げる。
「試してみた」
「……は?」
「やっぱり、ちゃんと反応するんだね」
(……なんだコイツ)
「……職務妨害なんですけど」
咄嗟に平静を装う。
声は、いつも通り。
でも。
「……っていうか、意味わかんないんですけど」
少しだけ遅れて言葉が出る。
視線が合う。
千翠は、ただ興味深そうにこちらを見ていた。
「……やっぱり、面白いね」
(……何なの、この人)
理解できない。
したくもない。
だから。
(……キスじゃない)
ただ、触れただけ。
それ以上の意味は、ない。
無意識に、唇を手の甲で拭った。
⸻
千翠は、その様子を眺める。
唇を拭った。
怒っている。
困惑している。
でも。
拒絶ではない。
予測と一致しない。
「……珍しい」
小さく呟く。
「また分からないものが増えた」
それが何なのか。
まだ、この時の千翠は知らない。




