第一話 その違和感は消えない①
現場は、すでに動き出していた。
「七沢警部、おはようございます!」
声が飛ぶ。
軽く手を上げて応じながら、規制線の内側へ入る。
視線が集まるのは、慣れている。
指示を出す声は落ち着いていて、迷いがない。
「鑑識は?まだ?」
「あと五分です!」
「被害者の身元は?」
「三十代男性。争った形跡はありますが、凶器はまだ見つかってません」
「分かった。先に外周固めて。目撃情報、洗えるところから当たって」
「はい!」
返事と同時に捜査員たちが動き出す。
警察本部捜査一課。
キャリア組の警部である七沢ありすの指示に、現場は淀みなく動いていく。
⸻
「七沢」
少しだけ低い声。
振り向かなくてもわかる。
「遅い」
「いや、今来たとこなんだけど」
肩越しに振り返る。
同期のキャリア警部、橘智哉が、いつもの落ち着いた顔で立っていた。
「資料」
「はいはい」
差し出されたファイルをそのまま受け取る。
ページをめくる指は止まらない。
「……で?」
「防犯カメラ、二箇所死角。時間帯的にこっち通ってる可能性高い」
「ふーん」
短く相槌。
そのまま別の方向を指す。
「じゃあそっち当たって」
「俺?」
「他に誰がいるの」
「いや、いるだろ普通に」
「いるけど」
ちらっとだけ視線を向ける。
「一番早いのはあんたでしょ」
「……はいはい」
ため息混じりに歩き出す。
文句は言うが、従う。
それが橘だった。
⸻
現場を離れて、本部に戻る。
ほんの少しの空き時間。
ポケットに手を入れて――違和感。
(……ない)
足を止める。
振り返る。
「これ?」
数歩先。
男が、指先でそれを挟んでいた。
警察手帳。
「……ありがとうございます」
手を伸ばす。
けれど、すぐには渡されない。
「七沢ありす」
視線が、落ちる。
「この名前、あんまり好きじゃない?」
一瞬、止まる。
「……は?」
やっと、手帳が返ってくる。
「かわいい名前。だから嫌なんじゃない?」
一瞬、止まる。
言葉が、遅れる。
「……何を根拠に」
「なんとなく」
「……それだけ?」
「うん。名前を呼んだ時、少しだけ表情が変わったから」
背の高い男だった。
ブラウンのスーツをきちんと着こなしている。
無駄のないシルエット。
けれど、髪だけが少し無造作に崩れている。
「次は落とさないといいね」
それだけ言って、興味を失ったように視線を外す。
そのまま、すれ違う。
(……次?)
思考がそこで一度だけ引っかかる。
わずかに残る違和感。
けれど、それ以上は考えない。
仕事に戻る。
⸻
——数日後。
規制線の向こう。
人混みの中で、ひとつだけ浮いているシルエットがあった。
ブラウンのスーツ。
整った立ち姿。
そして、どこか整いきらない髪。
(……は?)
この前の男だった。
「ちょっと、あなた」
近づく。
距離が、やけに近い。
「関係者以外立ち入り禁止です」
「関係者だよ」
「どこの所属ですか」
「特にない」
「……は?」
意味がわからない。
「でも関係はある」
そう言って、視線がこちらに向く。
「やっぱり、また会ったね」
一瞬、言葉が詰まる。
言葉の意味は普通に理解できた。
ただ、その言い方だけが少し引っかかる。
「……偶然です」
「偶然って思ってるんだ」
少しだけ、近い。
「来るの、遅かったね」
(なんなの、この人——)
(……変)
「……誰?」
思わず漏れた声に、横から割り込むように別の声が入る。
「あ、七沢警部、その人」
振り向くと、部下の一人が少し気まずそうに手を挙げていた。
「えっと……探偵の、神谷さんです」
「……は?」
理解が追いつかない。
「外部協力ってことで、その……上から連絡きてて……」
「聞いてないんだけど」
「ついさっきで……」
「七沢」
後ろから、聞き慣れた声。
振り向く。
橘が、いつもの落ち着いた顔で立っていた。
「さっき連絡あった」
「何それ」
「刑事部長判断で、特別に捜査協力入るって」
「はあ?」
「ほら」
スマホ画面を見せられる。
ありすは要所だけ文章を辿る。
『——探偵の神谷千翠さんに、捜査協力を依頼——』
思わず声が低くなる。
「……なんで?」
「知らない。でも決定」
「いや、だからって——」
「いいじゃん」
軽い声が割り込む。
視線が戻る。
神谷 千翠。
さっきと同じ、掴めない顔。
「困ることある?」
「ありますけど」
即答。
「関係者でもない人間が現場に入るのは——」
「関係者って扱いにはなってるでしょ」
「……現場の指揮は私がとってます」
「それは知ってる」
「だから、その判断は私に——」
一拍。
言いかけて、視線だけが少し外れる。
(……聞いてないな、これ)
そう思った瞬間、言葉が途切れる。
「じゃあ問題ないね」
一歩、距離が詰まる。
やっぱり近い。
「じゃあ、改めて」
わずかに首を傾ける。
「よろしく、七沢ありす警部」
名前。
フルで。
わざとらしく。
(……ほんと、最悪)
少しだけ、息を吐く。
「……勝手なことしないでください」
「しないよ」
「絶対しないでください」
「たぶん」
「……」
頭が痛い。
「……橘」
「なに」
「ちゃんと見てて」
「俺が?」
「一番マシでしょ」
「ひどくない?」
軽口を叩きながらも、橘は一歩前に出る。
視線だけで神谷を測る。
「……よろしく、神谷さん」
短く、落ち着いた声。
「うん、よろしく」
軽い返事。
空気が、少しだけ歪む。
(……なんでこんなのが)
視線を逸らす。
でも。
(……外せない)
理由は、まだわからない。
⸻
ありすの後ろ姿を見て千翠は整理する。
七沢ありす。
名前を呼ぶと、必ず少しだけ反応する。
怒っているわけではない。
警戒している。
でも、離れようとはしない。
——興味深い。
7/29 一部修正しました。




