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第二十ニ話 今さら届く名前

 現場。


 昼。


 規制線の内側。


 ありすは先に入っていた。


 手袋をつける。


 視線を落とす。



(……来るな)



 思ってしまう。


 その時点で、もうダメだと分かっている。


 その時。



「七沢警部」



 若い刑事が声をかける。



「さっきの聞き込み、助かりました」


「……何が?」



 ありすが顔を上げる。



「途中で質問の順番変えたじゃないですか」


「あれ、すごかったです」


「相手、急に話し始めたし」



 ありすは少しだけ考える。



「ああ」


 一拍。


「相手が話しやすい順番に変えただけ」


「いや、それが難しいんですよ」


「慣れ」


「厳しいなぁ」



 困ったように笑う部下。


 ありすも少しだけ笑う。



「事実だから」



 短い。


 でも。


 少しだけ柔らかい声。


 そのやり取りを。


 少し離れた場所から、千翠が見ていた。





(……また違う)



 言葉にならない違和感。


 視線が止まる。


 ありすが笑っている。


 自然に。


 当たり前みたいに。



(俺の時と違う)


 一拍。


(同じように話してる)


(距離も近い)


(なのに違う)



 胸の奥が、少しだけ重い。


 嫌な感じ。


 説明できない。



(……嫌だ)



 思った瞬間。


 千翠の思考が止まる。



(嫌?)



 自分の感情なのに。


 初めて見るものみたいだった。



(なんで)



 答えは出ない。


 でも。


 確かに、嫌だった。





「ありす」



 声をかける。


 ありすが振り返る。



「……なに」


「今、笑ってた」



 一瞬、間。



「……は?」


「さっき」



 視線を向ける。


 若手刑事の方へ。



「俺の時とは違う」



 ありすが眉を寄せる。



「何の話?」


「分からない」



 即答。



「でも」


 一拍。


「嫌だった」



 ありすが止まる。



「……嫌?」


「うん」



 少しだけ考える。



「多分」



 自分でも、まだ分からない。


 でも。


 それ以外の言葉が見つからない。



「……意味わかんない」


「うん」



 千翠は頷く。



「俺も」


 一拍。


「でも、多分これ」



 少しだけ考える。


 言葉を探す。


 見つからない。



「……まだ名前がない」



 静かに言う。


 ありすは、少しだけ目を見開く。



「でも」


 一拍。


「無視できない」



 視線は逸らさない。


 ありすは言葉を失う。


 今までと違う。


 再現できないとか。


 条件が違うとか。


 そういう話じゃない。


 目の前の男が。


 初めて、自分の感情を見ている。


 そんな気がした。


 その時。



「七沢」



 低い声。


 振り返る。


 橘。


 一瞬で空気が変わる。


 橘の視線が千翠へ向く。


 千翠も見る。


 沈黙。


 三人の視線が、交差したまま止まる。


 ありすは、何も言えない。



(……無理)



 どっちも、無理。


 でも。


 どっちも、切れない。



「……ごめん」



 小さく。


 それだけ言う。


 誰に向けたのかも曖昧なまま。


 視線を落とす。


 そのまま、背を向ける。


 逃げるみたいに。


 歩き出す。


 止まらない。


 振り返らない。





 残された二人。


 沈黙。


 橘が小さく息を吐く。



「……お前さ」



 千翠を見る。



「好きなんだろ」



 一拍。


 千翠が橘を見る。



「……好き?」



 初めて聞く言葉みたいに、繰り返す。



「七沢のこと」



 橘は視線を逸らさない。



「違うのか?」



 千翠は少しだけ考える。


 言葉を探すみたいに。



「分からない」


「は?」


「近づくと落ち着かない」


「離れる理由がない」


「気になる」


 一拍。


「優先順位も変わる」



 淡々と並べる。



「でも」


「好き、は分からない」



 橘が呆れたように息を吐く。



「それを好きって言うんだろ」



 千翠は黙る。


 否定しない。


 肯定もしない。



(好き)



 頭の中で繰り返す。



(これが?)



 違和感。


 でも。


 完全には否定できない。



「……そういうもの?」



 小さく落ちる。


 橘は少しだけ目を細める。



「少なくとも、仕事の延長じゃねぇよ」


 一拍。


「俺はそう思う」



 静かな声。


 千翠は答えない。


 ただ。


 少しだけ視線を落とす。



(好き)



 もう一度。


 頭の中で繰り返す。



(……分からない)



 でも。


 その言葉は、残った。





 現場の外。


 片付けが終わり、人が散っていく。


 ありすは一人で歩く。


 足音が近づく。



「七沢」



 橘。


 ありすは止まる。


 振り返らない。



「……なに」



 一拍。


 橘は少しだけ言葉を探す。


 でも。


 結局、短くなる。



「行くなよ」


 一拍。


「……ありす」



 その一言で。


 空気が変わる。


 ありすの呼吸が止まる。


 ゆっくり、振り返る。


 目が合う。


 橘は逸らさない。


 幼い頃の呼び方。


 それだけで、全部が違う。



「……どこに」



 分かってるのに聞く。


 橘は少しだけ笑う。



「分かってんだろ」



 一歩だけ、距離を詰める。



「そっち行くな」



 短い。


 でも重い。


 ありすの胸が強く締まる。



「……なんで」



 かすれる声。


 橘は少しだけ目を細める。



「お前、あいつのペースに飲み込まれてる」


 一拍。


「……見てらんねぇんだよ」



 責める声じゃない。


 心配と。


 焦りと。


 諦めきれない気持ち。



「それでもいいなら、止めない」



 少しだけ間を置く。



「……でも」



 視線を逸らさない。



「行くな」



 静かに。


 押しつけない。


 でも、残る。


 ありすは、何も言えない。


 橘は一瞬だけ視線を落として。



「……じゃあな」



 それだけ残して、背を向けた。


 ありすは動けない。


 頭の中に残る。



『……ありす』



 名前を呼ばれただけ。


 それだけなのに。


 胸の奥が。


 少しだけ、痛かった。

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