第二十一話 崩れ始めた②
その距離のまま。
動けない。
千翠の視線。
逃げない。
近い。
(……無理)
処理が追いつかない。
その時。
「七沢」
声。
割り込むように。
橘。
一歩で距離を詰める。
そのまま。
ありすと千翠の間に入る。
自然じゃない動き。
でも、迷いはない。
「神谷」
低い声。
「それ、今やる話か?」
一拍。
千翠が橘を見る。
「確認してるだけ」
即答。
変わらない。
橘の眉がわずかに動く。
「それを今やる必要あるかって聞いてんだよ」
「あるよ」
迷いがない。
「……今じゃないと拾えない」
真顔。
橘の空気が、変わる。
「……ふざけんなよ」
低く落ちる声。
「必要だからやってるだけ」
千翠は変わらない。
橘の空気がさらに硬くなる。
その間で。
ありすの視線だけが揺れる。
橘を見る。
千翠を見る。
どっちも近い。
どっちも引かない。
呼吸が浅くなる。
胸の奥がうるさい。
考えようとしても、言葉がまとまらない。
(……無理)
「やめて」
声が出る。
二人が止まる。
ありすが立ち上がる。
一歩、距離を取る。
「……やめて」
もう一度。
今度ははっきり。
「二人とも」
空気が止まる。
橘も。
千翠も。
何も言わない。
ありすの視線が揺れる。
でも。
逸らさない。
「意味わかんないから」
そのまま言う。
「どっちも」
一拍。
橘の目がわずかに動く。
千翠はただ見ている。
「勝手に来て」
「勝手に言って」
「……無理」
言葉が崩れる。
でも止まらない。
「考えられない」
呼吸が浅い。
「だから」
一歩、下がる。
「今は無理」
はっきり。
線を引く。
橘が何か言いかけて、止まる。
千翠は、黙っている。
ありすはそれ以上見ない。
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
早い足取り。
止まらない。
⸻
残された二人。
沈黙。
橘が小さく息を吐く。
「……やりすぎたな」
自嘲気味に言う。
一拍。
「お前も」
横を見る。
千翠。
視線は、ありすの背中の方向。
「……そうかな」
静かに返す。
「まだ理解しきれてないだけだと思うけど」
橘が一瞬言葉を失う。
(……こいつ)
理解できない。
でも。
厄介なのは分かる。
「……マジでめんどくせぇな」
小さく吐き捨てる。
千翠はそれ以上何も言わない。
ただ。
少しだけ考える。
(“今は無理”か)
(……でも)
視線がわずかに細くなる。
(まだ終わってない)
静かに、そう思っていた。
⸻
ありすは規制線の外に出て、
しばらくそのまま歩いていた。
(無理)
それだけが頭にある。
距離を取る。
もう関わらない。
そう決めた。
なのに。
背後から、足音。
一定の距離で、ついてくる気配。
(……来てる)
無視する。
止まらない。
「ありす」
呼ばれる。
無視する。
「ありす」
二回目。
足が止まる。
(……最悪)
振り返る。
千翠。
いつも通りの顔。
変わらない。
「……何」
短く。
「ごめん」
その一言に。
ありすが一瞬だけ目を瞬かせる。
(……え)
「一つだけ」
千翠が続ける。
迷いがない。
「俺の中で、まだ整理できてない」
ありすは小さく息を吐く。
「知らない」
「うん」
「だから帰って」
一拍。
千翠は少しだけ考える。
「難しい」
その時。
ぽつ。
頬に冷たい感触。
「……え」
見上げる。
空。
次の瞬間。
ざあっ、と。
雨が落ちてくる。
「うわっ」
思わず駆け出す。
近くの建物の軒下。
飛び込むように入る。
狭い。
一人なら十分。
遅れて。
もう一つの足音。
千翠。
同じように駆け込んでくる。
「……なんでついてくるの」
ありすが眉を寄せる。
「近かったから」
即答。
「そういう話じゃなくて」
「やめてって言ったよね」
一拍。
「言ってたね」
否定しない。
でも、帰らない。
「……寒い?」
「……別に」
「震えてる」
千翠は少しだけ考える。
「心拍も上がってる」
ありすの呼吸が止まる。
「……急な雨だったから」
「……そう」
それ以上は言わない。
でも。
視線だけは逸らさない。
近い。
狭い。
仕方ない距離。
雨音だけが大きい。
(……近い)
意識するなと言う方が無理だった。
その時。
ふっと。
腕を引かれる。
「なに……!」
反射的に声が出る。
「肩」
千翠が視線を向ける。
「濡れてる」
見る。
軒の端。
雨が吹き込んでいる。
「こっち」
引かれる。
一歩。
内側へ。
さっきより近い。
肩が触れそうな距離。
ありすの心臓が跳ねる。
(……近い)
さっきより。
ずっと。
「……やっぱり上がる」
小さく落ちる声。
「……は?」
「俺も」
一拍。
「ありすも」
ありすが言葉を失う。
「……意味わかんない」
「うん」
千翠は頷く。
「俺も分からない」
雨音。
沈黙。
「でも」
一拍。
「無視できない」
静かな声。
ありすの呼吸が浅くなる。
近い。
逃げ場がない。
でも。
(……嫌じゃない)
思った瞬間。
(違う)
(そんなわけない)
すぐに否定する。
「……違うから」
小さく言う。
「そう?」
千翠は否定しない。
肯定もしない。
ただ。
静かに見る。
雨は、まだ止まない。
ありすは視線を逸らす。
胸の奥だけが、うるさかった。




