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第十九話 消えない言葉

 聞き込みを終えて、外に出る。


 夕方の空気が少し冷たい。





(……なんなの、ほんと)



 隣にいたはずの気配が、さっきまで残っている。



(“確認したいから”って何)



 意味が分からない。


 でも。


 完全に切り離せない。


 ため息をついた、その時。



「七沢」



 声。


 振り返る。


 橘。



「……なに」


「終わった?」


「……うん、今」



 短く返す。


 少しだけ沈黙。


 橘が一歩近づく。


 自然な動作。


 でも。


 いつもより、近い。



「さっきのさ」


「……なに」


「神谷」



 一拍。


 ありすの視線が少し揺れる。



「……あいつが、なに」


「一緒に行ったろ」


「勝手についてきただけ」



 即答。


 橘は少しだけ息を吐く。



「止めなかったのか」


「……止めたけど」



 言葉が少しだけ弱くなる。


 一歩。


 橘が近づく。


 ありすは無意識に下がる。


 また一歩。


 さらに距離が縮まる。


 ありすはさらに後ろへ下がる。


 背中に、冷たい感触。


 壁。



(……え)



 そこで初めて気づく。


 近い。


 橘も一瞬だけ止まる。


 でも、引かない。


 視線が外れない。



「七沢」


「……なに」



 声が少しだけ低くなる。



「逃げんなよ」



 一拍。


 ありすの呼吸が止まる。



「……逃げてない」


「逃げてるだろ」



 即答。


 視線がぶつかる。


 逸らせない。



「ちゃんと見ろって」



 一歩分の距離。


 近い。



「いつまで目逸らしてるんだよ」



 低く、はっきり。


 ありすの思考が止まる。



(……何それ)



 意味は分かる。


 でも。


 答えられない。



「……何が」



 視線を逸らそうとする。


 でも逸らしきれない。


 橘は視線を外さない。



「俺を見ろよ」



 まっすぐ。


 逃げ場がない。


 ありすの心臓が強く跳ねる。



(……なんで)



 分からない。


 でも。


 目が逸らせない。


 沈黙。


 橘が小さく息を吐く。



「ちゃんと考えろ」



 少しだけ、声が落ちる。


 ありすは何も言えない。


 そのまま。


 橘が一歩引く。


 距離が戻る。


 空気が少しだけ緩む。



「……じゃあな」



 それだけ言って、背を向ける。


 足音が遠ざかる。


 静寂。


 ありすは、その場から動けない。


 背中に、壁の感触。


 呼吸がうまくできない。



(……何それ)



 頭が追いつかない。



『俺を見ろよ』



 言葉が残っている。



『逃げんなよ』



 胸の奥が、強く鳴る。



(……無理)


(見れないよ)



 小さく息を吐いた、その瞬間。


 力が抜ける。


 背中を預けたまま。


 ずる、と。


 その場にしゃがみ込む。


 うまく立てない。



(……なに、これ)



 心臓がうるさい。


 さっきより、ずっと。


 橘の言葉と。


 近すぎた距離と。


 全部が、残っている。


 消えない。



「……意味わかんない」



 小さく呟く。





 次の日。


 本部で内勤業務中、課長から声がかかる。



「七沢、今日の午後これ回れるか」


「行きます」



 即答する。



「助かる」



 紙のメモを受け取る。



「そしたら橘と……」


「一人で行けます」



 上司の言葉を遮る。


 本来なら、二人で回る範囲。


 でも。


 先に言う。


 一瞬、相手が止まる。



「……大丈夫か?」


「はい」



 即答。


 それ以上は聞かれない。


 そのまま、自席に戻る。


 視線は上げない。


 上げたら、見えるから。


 橘が。



(……今は無理)



 小さく息を吐く。


 パソコンの電源を入れる。


 画面が立ち上がる。


 カーソルが点滅する。


 報告書の画面を開く。


 キーボードに指を置く。


 打つ。


 文字は進む。


 でも。


 意味が、入ってこない。





 午後。


 一人で外に出る。


 静か。


 誰もいない。



(……楽)



 そう思う。


 でも。


 頭の中は、静かじゃない。



『俺を見ろよ』



 橘の声。


 思い出して。


 歩くリズムが少しだけ乱れる。



(……知らない)



 打ち消す。


 すぐに。



『ありすだけ違う』



 別の声。


 千翠。



(……だから何)



 眉を寄せる。


 立ち止まる。


 深く息を吐く。



(考えない)



 それでいい。


 仕事してればいい。


 それだけでいい。


 また歩き出す。





 夕方。


 署に戻る。


 席に座る。


 パソコンの画面を開く。


 報告書の続きを打つ。


 カタカタと、一定のリズム。


 指は動く。


 でも。


 途中で止まる。


 ふと、顔を上げる。


 少し先。


 橘が誰かと話している。


 いつも通りの距離。


 いつも通りの空気。



(……見ない)



 すぐに視線を落とす。


 キーボードに指を戻す。


 打つ。


 打ち続ける。


 考えないように。


 そのまま。


 何も考えずにいられればいいのに。


 ふと。


 思う。



(……今日、現場ないのか)



 一瞬で、自分で引く。



(何それ)



 手が止まる。


 心臓が、少しだけ速くなる。



(……違う)


(仕事の話)


(それだけ)



 小さく息を吐く。


 また、打ち始める。


 今度は止めない。


 考えない。


 全部、後回しでいい。


 そう思いながら。


 画面の文字を埋めていった。


 でも。


 胸の奥のざわつきだけは。


 最後まで、消えなかった。

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