第十七話 言葉と距離①
部屋のドアを閉める。
鍵の音がやけに大きく響いた。
⸻
靴を脱いで。
そのまま少しだけ立ち止まる。
(……なんなの、最近)
ため息。
バッグをソファに放り投げる。
頭の中に浮かぶのは。
この前のやり取り。
『もう、俺にしとけよ』
橘の声。
(意味わかんない)
でも。
完全には流せない。
『もう引く気ないから』
思い出して。
少しだけ、呼吸が浅くなる。
(……なんで)
長く一緒にいる。
ずっと知ってる。
安心できる相手。
それは、変わらない。
なのに。
(なんで、あんな言い方するの)
少しだけ、落ち着かない。
そのまま、ベッドに倒れる。
天井を見上げる。
目を閉じると。
別の顔が浮かぶ。
『同じ距離なのに、反応違う』
千翠。
(あいつも意味わかんない)
即座に否定する。
でも。
完全には消えない。
『ありすだけ違う』
思考が一瞬止まる。
(……は?)
何それ。
意味不明。
なのに。
心臓が、少しだけ速くなる。
(なんで)
わからない。
わかりたくもない。
でも。
さっきの距離。
近かった。
橘は、ずっと隣にいた。
今まで、その距離を意識したことなんてなかった。
(……そのはずなのに)
本当に?
少しだけ、考える。
橘と並んで歩いた時。
あの一言。
『ずっとだよ』
胸の奥が、少しだけざわつく。
(……なんで)
もう一度。
千翠。
近づかれた時。
思わず引いた。
なのに。
完全に嫌だったわけじゃない。
(……意味わかんない)
顔を覆う。
思考がまとまらない。
整理できない。
ただ。
残ってる。
橘の言葉。
千翠との距離。
どちらも。
頭から離れない。
(……なんなの、これ)
答えは出ない。
出ないまま。
目を閉じる。
静かな部屋。
でも。
胸の奥だけ、少しだけうるさいままだった。
⸻
翌日。
休憩室。
昼下がりの、少しだけ緩んだ空気。
「で?」
向かいで芹塚が頬杖をつく。
「何が」
「いや、なんか今日ずっとぼーっとしてるじゃん」
ありすは視線を逸らす。
「別に」
「別にの顔じゃないって」
にやっと笑う。
「……なに、モテ期きた?」
「は?」
即座に否定する。
「何言ってんの」
「だってさー」
身を乗り出す。
「二人に振り回されてるじゃん」
その一言で。
ありすの動きが一瞬止まる。
「……なんでそうなるの」
「いや分かりやすいって」
「橘は前からだし」
「神谷はあからさまじゃん」
ありすは小さく息を吐く。
「……違う」
「どっちが?」
「どっちも」
即答。
芹塚が吹き出す。
「いや無理あるってそれ」
「橘は絶対そうでしょ」
「は?」
「だってあんな分かりやすいのに気づかないわけないじゃん」
ありすが言葉に詰まる。
「……別に、そんなんじゃ」
「え、じゃあ神谷?」
「違う」
少し強く否定する。
でも。
一瞬だけ間が空く。
彩音は見逃さない。
「……あー」
「なにその間。ないから」
「絶対あるじゃん」
「ないって」
少しだけ語気が強くなる。
芹塚は楽しそうに笑う。
「七沢さ」
一拍。
「どっちも嫌じゃないんでしょ?」
ありすの思考が止まる。
「……は?」
「いや、顔に出てる」
「どっちも完全にナシって顔じゃない」
「そんなこと」
言いかけて。
止まる。
(……違う?)
橘。
安心する。
でも、この前の言葉。
少しだけ、引っかかってる。
千翠。
意味わかんない。
距離もおかしい。
なのに。
完全に嫌だったかと言われると。
(……)
言葉が出ない。
芹塚がにやにやする。
「ほら」
「……うるさい」
「いやでもさー」
軽い口調のまま。
「普通に考えたら橘でしょ」
「安心だし、分かりやすいし」
一拍。
「神谷はやめときな」
「絶対めんどくさい」
ありすが少しだけ顔をしかめる。
「……あいつはそういうんじゃない」
「じゃあ何?」
「……知らない」
「いやもうその時点で巻き込まれてるって」
笑う。
ありすは小さく息を吐く。
「……意味わかんない」
「私なら橘だけどね」
「そういうんじゃない」
「じゃあ何」
即答できない。
沈黙。
芹塚が肩をすくめる。
「まぁいいけどさ」
「悩んでる時点でアウトだからね」
「は?」
「だってどうでもよかったら悩まないでしょ」
一拍。
ありすは何も言えない。
図星を突かれたみたいに。
「……もういい」
立ち上がる。
「逃げた」
「逃げてない」
言いながら、部屋を出る。
廊下に出て。
小さく息を吐く。
(……何なの、ほんとに)
さっきの言葉が残る。
『どっちも嫌じゃないんでしょ?』
(……違う)
そう思う。
でも。
どうしても、言い切れなかった。
歩き出す。
足取りが少しだけ重い。
頭の中は、やっぱりうるさいままだった。




