第25話 無感情、そして、マネージャー
無機質なオフィスだった。
白とグレーを基調とした空間に、機能性だけを追求したデスクが整然と並ぶ。
壁にかけられた抽象画ですら、人の気配を拒むかのように、冷ややかな空気を漂わせている。
内線電話の電子音が、その静寂を切り裂く。
栞は、モニターに表示されたグラフから目を離すことなく、事務的に受話器を取った。
「はい、月森です」
『あ、部長。申し訳ありません、先日の、アリアさんの配信でのご発言の件ですが、取引先の広報担当者から、ファンの方々の反応に少々困惑されていると…』
「先方には、タレントの表現の一環であり、他意はない旨、改めてお伝えしなさい。今後の指導については、こちらで徹底します」
「は、はい! 承知いたしました!」
感情の乗らない、しかし有無を言わせぬ声色。
電話の向こうで部下が恐縮する気配を感じながら、彼女は通話を終えた。
栞は、見ていたウィンドウを最小化し、背後に隠れていたSNSの画面を正面に表示させる。
『#神聖アリア帝国』『#世界の半分』――数日前にアリアが引き起こした騒動の残滓が、まだ熱を帯びて燻っていた。
彼女は、その画面を、まるで無価値なデータ群を眺めるかのように、色のない瞳で見つめている。
ふと、視線が、画面の隅で開かれている、別のウィンドウに吸い寄せられた。
魔王フレアのチャンネルページ。
画面の中で、アバターは尊大に、そして下品に笑っている。
栞は、マウスのカーソルを、そのウィンドウの「×」ボタンに合わせた。
だが、クリックする直前で指を止め、誰にも聞こえないほど小さく、息を吐いた。
(この女が、全ての元凶…)
アリア様まで、その下品な感情論に汚染されかけている。
やはり、早急に排除しなければ。
思考を切り替え、彼女は別のファイルを開いた。
それは、数日前に彼女が指示した、フレア信者へのサイバー攻撃に関する事後報告書だった。
技術部門から上がってきたそのレポートは、誰かに提出するためのものではない。
自らの「仕事」が完璧に完遂されたことを確認するための、個人的な記録だ。
画面には、対象サーバーから関連する全てのアクセス記録が抹消されたことを示す、最終確認レポートが表示されている。
『彼ら』の仕事は、常に完璧だ。
誰にも、何も掴ませはしない。
◇
深夜。
全ての社員が帰宅し、静まり返ったオフィスで、栞は一人デスクに向かっていた。
彼女は、鍵のかかった引き出しの奥から、一つの古びたオルゴールを取り出す。
白く塗装された木製の箱には、色褪せた百合の花が描かれていた。
彼女は、そのオルゴールを、決して蓋を開けることなく、ただじっと見つめている。
――キミの歌は、みんなを幸せにする力があるよ。
遠い昔に聞いた、誰かの言葉。
オルゴールからは、微かに、かつて自分が愛し、そして憎んだ歌のメロディが漏れ聞こえてくるような、そんな幻聴に襲われる。
栞は、その幻聴を振り払うように、強く目を閉じた。
そして、オルゴールを、まるで忌まわしい遺物のように、再び引き出しの奥深くへとしまい込んだ。
(感傷は、ノイズだ)
彼女はPCに向き直ると、暗号化されたチャットツールを起動する。
宛先は、技術部門の特定のチームを示すコードネーム。
そして、チャットウィンドウに、一つの言葉を打ち込んだ。
『カオス&オーダー』
それは、もはや単なる妨害工作ではなかった。
魔王フレアという存在が、この世界で確立した『意味』そのものを、内側から瓦解させるための、単語。
彼女という現象を、観測不能なほどの誤差へと収束させよという、指令だった。
彼女は、送信ボタンを、まるで世界の真理を書き換えるかのように、静かに、そして躊躇なくクリックした。
彼女は、無人のオフィスを見渡した。
壁には、この会社のCEOが掲げた『計画』の理念が、美しいデザインで飾られている。
彼女は、その理念に一度だけ、視線を向けて、静かにオフィスを後にした。
◇
ボロアパートの一室。
忠臣ヴェルゼスは、PCのモニターを睨みつけながら、小さな前足で顎をさする。
その仕草はいつものように冷静沈着だが、彼の全身は、まるで鉛を仕込まれたかのように重い。
彼は粘着・ウォールから提出された2つの全く異なるデータを開いた。
1つは、先のハッキング事件が起きた時刻の、セブンスセオリー周辺の不審な通信記録。
そして、もう1つは――マッスルGへの攻撃を防いだ際の防御ログだった。
一見、何の関係もない2つの記録。
攻撃と防御。
矛と盾。
だが、ヴェルゼスの鋭い目は、その2つのデータに、極めて稀な、そして恐ろしく似通った「構造」を見抜いていた。
“粘着・ウォール”が記録した敵の攻撃。
その手口は、極めて特殊なものだった。
そして、その全く同じ方法による通信が、セブンスセオリーの周辺から発信されていたのだ。
偶然ではありえない、完璧な一致だった。
「…同じ『匂い』がする」
ヴェルゼスは、静かに、そして確信を込めて呟いた。
そして、極秘に設定されたダイレクトメッセージのアカウントを開く。
相手は、我が軍の「目」。
彼は、痛む前足で、一つの分析データファイルを添付し、そして、極めて短い命令文を打ち込んだ。
それは、具体的な命令と、主との間で交わされた、絶対的な信頼の証を組み合わせた、完璧な一文だった。
【大魔王フレア】:『このデータを元に、敵の『巣』を特定せよ。――プリンは飲み物』
メッセージウィンドウの向こうで、数秒の沈黙。
やがて、絶対的な忠誠を示す返信が、静かに表示された。
【Stalker Wall】: 『……御意』
ヴェルゼスは、その返信を確認すると、満足げにチャットウィンドウを閉じた。
フレアが知らないところで、魔王軍の「目」と「頭脳」による、静かなる共同戦線が張られていた。
彼は一息つき、全身のストレッチを始めるのだった。




