第九話:炉の神の残火と、美しき妻の指輪
白銀の天導主塔——その最深部へと通じる道は、都市の華やかさとは完全に切り離された異様な空間であった。
エレナとルーヴェンは、反乱軍の者たちを地上への誘導に回し、二人だけで無人の螺旋階段を地下深くへと降りていた。 壁面は最新の魔導合金ではなく、はるか太古に鍛えられたと思われる黒ずんだ鉄と古代文字で覆われている。階段を下りるにつれて、先ほどまでの熱風とは異なる、重厚でどこか悲痛な「熱気」が肌を刺し始めていた。
「……あたたかい……というより、胸が締め付けられるような熱さですわ……」
エレナは胸元に手を当て、息を詰めた。 彼女の抱く『パナケイアの雫』もまた、この地下から漂う途方もない神性と哀傷の気配に反応し、微かに揺らめいていた。
「ゴホッ、ゴホッ! ……ふぅ、この階層の空気は古代の炉の臭いがするな」
ルーヴェンは胸を押さえて咳き込みながらも、一歩一歩確かな足取りで暗がりを進んでいた。 彼の持つ『界の羅針盤』の針は、すでに回転を止め、眼前に聳え立つ重厚な両開きの鉄扉を真っ直ぐに指し示していた。
「この先か……」
ルーヴェンが手をかざすと、黒い呪印が滑り出し、厳重に施されていた古代の封印術がカチリと音を立てて解かれた。 ギギギ……と重い音を立てて扉が開く。
そこに広がっていたのは、空中都市アーベルのすべての動力を生み出していた「心臓部」であった。
◆
直径数十メートルに及ぶ巨大な円形の大空間。 その中央には、無数の魔導ケーブルや汲み上げパイプが複雑に絡みついた巨大な透明装置——神聖なる存在を無理やり繋ぎ止め、その力を搾取するための『収奪籠』が設置されていた。
そして、そのガラス状の装置の内部に、静かに「それ」は鎮座していた。
「これは……手の……彫像……?」
エレナが息を呑んだ。
装置の中央に配されていたのは、漆黒の金属——一切の不純物を削ぎ落とした最高峰の『玉鋼』で刻まれた、人間の右手を模した彫像であった。 腕の半ばから切断されたような意匠で、その力強い人差し指だけが、天を仰ぐように真っ直ぐ上向きに伸ばされている。
そして——その伸ばされた漆黒の人差し指の先。 そこに、ぽつんと「ひとすじの炎」が灯っていた。
燃え盛る火炎ではない。まるで今にも風に吹き消されそうな、儚くかすかな灯火。 しかし、その小さな炎から発せられているのは、世界の理すら書き換えるほどの苛烈で高貴な神の熱量であった。
「……『ヘパイストスの灯火』か」
ルーヴェンの冷徹な声が響いた。
「太古の鍛冶と神火を司る神の残火。……かつて世界を誕生させた炉の熱源そのものだ。ほんの一滴の熱であっても、ひとつの都市を空に浮かべ続けるほどの無尽蔵のエネルギーを生み出す」
「でも……見てください、ルーヴェン!」
エレナが悲鳴に近い声を上げた。
「あの灯火……いまにも消えてしまいそうです! 都市の人間たちは、この尊い神の火を装置に閉じ込め、無制限に力を絞り尽くしていたのですわ……!」
装置のパイプからは、消えかける炎から絞り出された神力が休むことなく吸い上げられ、地上からの吸魔と組み合わされて都市の動力へと変換されていたのだ。 『タンタロスの腕輪』は地上から命を奪うためのポンプに過ぎず、都市を浮かべ続けていた真の命の灯火は、この囚われの神火であった。
「炎が完全に消えれば、神の理が損なわれ、この一帯の空間そのものが崩壊する。都市長どもは、自分たちがどれほど危険な渡り鳥の綱渡りをしていたかも理解していなかったわけだ」
ルーヴェンは冷ややかに装置へと歩み寄った。
その時だった。
ガタタッ……!
ルーヴェンが肩から下げていた、古びた革の旅行鞄が激しく振動を始めた。 鞄のフタの隙間から、黄金と漆黒の眩い光が漏れ出し、空間を満たしていく。
「え……? ルーヴェンの鞄が……!?」
「……フン、共鳴したか」
ルーヴェンは静かに鞄のフタを開け、中から一つの小さな箱を取り出した。 箱のフタを開けると、そこに収められていたのは、彫像と同じ『玉鋼』で鍛え上げられた、繊細にして美しい一輪の花の意匠が施された輪——『アグライアの指輪』であった。
かつてルーヴェンが数百年前に異世界で封印し、自らの手で回収して携えていた本物の聖遺物の一つである。
玉鋼の指輪が、装置の中の手の彫像に向かって、まるで生き物のように歓喜の脈動を打っている。
「アグライア……神話における、美と優雅を司る女神。そして……鍛冶の神ヘパイストスの『妻』の名だ」
ルーヴェンの言葉に、エレナは目を見開いた。
「妻……! では、その指輪とあの灯火は……!」
「同じ神鉄から打たれた対の聖遺物だ。過酷な労働と囚われの苦痛に耐えかね、消えかけていた夫の火が……妻の象徴たる指輪の気配を感じ取って呼応している」
彫像の指先で消えかかっていた『ヘパイストスの灯火』が、指輪の接近とともに、ポッと温かな黄金色の輝きを取り戻し始めた。哀しげだった熱気が、懐かしい愛しさに満ちた穏やかな温もりへと変わっていく。
「都市の機械によって無理やり力を引き出されれば炎は死ぬ。……だが、正しく愛する者の手によって包まれれば、その力は静かに収まり、眠りにつく」
ルーヴェンは手に持った『アグライアの指輪』をかざし、目の前の収奪装置に向かって右手をつき出した。
「——『神鉄共鳴・連理破術』」
黒い呪術の線が指輪から伸び、収奪装置のガラスとケーブルを一切傷つけることなく透過して、内部の『玉鋼の手の彫像』へと達した。
カチリ。
静かな、しかし確かな音が大空間に響き渡った。
ルーヴェンの放った呪法に導かれ、指輪は滑るように空間を渡り、装置の中にある彫像の伸びた人差し指へと、吸い込まれるように嵌め合わされたのだ。
その瞬間——。
ズズズズズ……ッ!!
彫像の指先に宿っていた『ヘパイストスの灯火』が、指輪が放つ柔らかな光とひとつに合一した。 暴走し、消えかけていた神火の熱量が、指輪という「正しい器」を得たことで一瞬にして制御され、穏やかな一粒の美しい琥珀色の光となって指輪の宝石部分へと収束していった。
都市の設備へと繋がっていた魔導ケーブルが次々と光を失い、動力の吸い上げが完全に停止する。
しかし、空間が崩壊することはなかった。 神の火は消えたのではない。妻の指輪に抱かれ、穏やかな深い眠りについたのだ。
「あ……炎が……おさまりましたわ……」
エレナは感極まったように胸を撫で下ろした。 恐ろしい破壊や封印ではなく、まるで傷ついた神の魂が救われたかのような、温かな結末。
ルーヴェンはパチンと指を鳴らした。 収奪装置が静かに解体され、中央に置かれていた玉鋼の手の彫像——その指に『アグライアの指輪』を嵌めたままの神具が、ふわりと宙に浮き、ルーヴェンの手元へと引き寄せられた。
ルーヴェンはその彫像を静かに受け取ると、丁寧に布で包み、己の革鞄の中へと仕舞い込んだ。
「これにて回収完了だ。……二度と狂った人間どもの玩具にはさせん」
◆
神火が制御されたことにより、空中都市アーベルを無理やり浮遊させていた過剰なエネルギー供給は完全に途絶えた。
都市は崩落することこそなかったが、その巨体はゆっくりと、時間をかけて地上へと下降を始めていた。数日かけて、かつて乾いていた荒野のただ中へと安全に着地することになるだろう。
上の富裕層も、下の貧民も、これからは同じ「地上」という同じ土俵で、お互いに歩み寄って生きていかなければならない。 だが、地上の水と命はすでに『タンタロスの腕輪』の破壊によって戻りつつあった。
地下施設から地上へと脱出してきたルーヴェンとエレナは、ゆっくりと降り始めていく都市の風に吹かれていた。
「……ルーヴェン。あの神様たちは、これで一緒になれたのですね」
エレナが隣で穏やかに微笑む。
「知るか。ただの物質の共鳴現象だ」
ルーヴェンはつれなく言い捨て、「ゴホッ、ゴホッ!」と痛々しく咳き込んで見せた。 しかし、彼が鞄を扱う手つきが、いつもよりほんの少しだけ優しかったのを、エレナは見逃さなかった。
ルーヴェンが懐から取り出した『界の羅針盤』。 今度こそ、その針は地上や都市を指すことなく、狂ったように高速回転を始めた。
やがて針がピタリと停止すると、二人の目の前の空間が波打ち、青白く澄んだ幾何学模様の光の円環——異世界への扉が静かにひらかれた。
「……次の世界が開いたぞ、エレナ」
「はい! 行きましょう、ルーヴェン!」
不老不死の病弱な語り部と、変装した元聖女。 二人は救われた世界の風を背に受けながら、新たな異世界と未知の聖遺物が待つ光の中へと、迷いなく足を踏み入れていくのだった。
(第九話 完




