第十話:深緑の楽園と、潜む龍毒
『界の羅針盤』が開いた光の円環を抜けた瞬間、二人を迎えたのは、これまで巡ってきた世界とは対極をなす芳醇な生命の匂いだった。
湿り気を含んだ温かな風。湿原と巨木が織りなす濃厚な青くささ。そして、どこからか聞こえてくる清らかな鳥のさえずり。
「……わぁ……! なんて綺麗な場所……!」
エレナは眩しそうに目を細め、思わず歓声を上げた。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの見事な深緑の樹海であった。 太古の歳月を生き抜いてきたと思われる巨木たちが立ち並び、日光を浴びてエメラルド色に輝く葉がさらさらと音を立てて揺れている。そして何より圧巻なのは、大陸の中心——遥か彼方の地平線から天を突くようにそびえ立つ、想像を絶する巨大な大樹の姿であった。
雲を突き抜け、星々に届かんばかりの巨木——まさに『世界樹』と呼ぶにふさわしい神々しい佇まいである。
「……ふぅ。ゴホッ、ゴホッ! ……空気の密度が高すぎるな。魔力が濃すぎる環境は、病人の身には毒だ」
ルーヴェンは胸を押さえ、痛々しく咳き込みながら外套の襟をかき抱いた。 青白い顔に落とされる木漏れ日が、彼の病弱さを際立たせている。
「ルーヴェン、大丈夫ですか? お水をお飲みになりますか?」
「いや、いい。……それより修道女、浮かれるなよ。どれほど澄んだ世界に見えようと、ここは異界だ」
ルーヴェンは黒い瞳を走らせ、周囲の気配を探った。 彼の懐で、古びた金属製の『界の羅針盤』が、重々しく不気味な微振動を繰り返していた。針が指し示しているのは、あの天を突く巨大な大樹の根元——大陸の中心地であった。
「……今回の聖遺物は『ニーズヘッグの顎』だ」
「ニーズヘッグ……? 北方の伝承にある、世界樹の根を食い荒らすという毒龍の名ですか……?」
「そうだ。太古の邪龍の顎骨から削り出されたとされる、苛烈な『呪毒』を宿す聖遺物だ。触れるものすべてを腐敗させ、大地の生命力を内側から汚染し尽くす最悪の毒具……」
ルーヴェンは周囲の青々とした樹海を見回し、不審そうに目を細めた。
「だが……妙だな。これほど強烈な呪毒を秘めた聖遺物が顕現しているというのに、この世界の大地には何の異常も見られない。枯れ果てるどころか、生命力に満ち溢れすぎている」
「確かに……今までの世界のような狂気も、枯渇も感じられませんわね」
「だからこそ警戒が必要だ。見かけの平和ほど、タチの悪い病を隠しているものはない」
◆
二人は森の中の街道を進み、世界樹の麓へと続く大都市へと辿り着いた。
そこは、長寿と高い魔導を誇る『エルフ族』が統治する森の都であった。 繊細な木彫りと生きている樹木が融合した美しい建築物が立ち並び、澄んだ水が流れる水路が街を巡っている。行き交うエルフたちは皆、一様に気品ある容姿をし、風を孕むような滑らかな衣装に身を包んでいた。
そして、都市の中にはエルフだけでなく、少数ではあるが人族やドワーフたちの姿もあった。
「……あら?」
エレナは通行人の様子を観察し、首を傾げた。
事前に入手した噂では、この大陸においてエルフ以外の種族はすべて『奴隷』という階級に置かれていると聞いていた。それゆえに凄惨な虐待や搾取が行われているのかと危惧していたのだが、目の前の光景はまったく異なっていた。
重い荷物を運ぶドワーフの男たちは、エルフの技師と楽しそうに笑い合いながら酒を交わしている。 街路を清掃する人族の少女たちも、怯える様子もなく健やかに働き、通行人のエルフから「いつもご苦労様」と温かな労いの言葉と果物を受け取っていた。
「……奴隷、なのですよね? 皆さん、とても活き活きと働いていらっしゃいますわ」
「制度上の区分は『奴隷階級』だが、実態はただの『職能分業』だな」
ルーヴェンは歩みを止めず、冷静に観察していた。
「長寿命のエルフは管理と魔術を司り、頑丈なドワーフは鍛冶と土木、手先の器用な人族は農耕と細工を担う。互いの特性を理解し、尊重し合っている。……虐げられた悲鳴も、支配者の歪んだ優越感もない。完璧なまでの『平穏と秩序』だ」
「本当に……素晴らしい世界ではありませんか。戦争もなく、枯渇もなく、種族間の争いもないなんて……」
エレナは胸を撫で下ろしかけた。
だが、ルーヴェンは黒檀の横笛を懐から取り出し、深閑とした声で呟いた。
「……だからこそ、異常なのだ」
「え……?」
「二千年の間、俺は数々の世界を見てきた。どれほど理知的な種族であれ、他種族を『奴隷』と定義した構造の中で、一切の歪みも不満も生じない社会など存在するはずがない。……人間の心には、必ず嫉妬、傲慢、恐怖が芽生える。それが『生命』というものだ」
ルーヴェンは路地裏の広場へと足を向けた。
「表面上の平和があまりにも完璧すぎる。まるで……全員の心の中から『陰の感情』だけが根こそぎ削ぎ落とされているかのように」
◆
夕暮れ時。広場の中央で、ルーヴェンは静かに横笛を構えた。
美しい旋律が、夕暮れの街に広がっていく。人を惹きつける『誘引の呪言』を込めた音色。 仕事を終えたドワーフたちや、買い出し途中の人族、そして散歩中のエルフたちが、吸い寄せられるように広場へと集まってきた。
「……みなさん、ようこそ。わたくしは旅の語り部ルーヴェンと申します。……ゴホッ、ゴホッ! 失礼、喉が弱くてね……」
ルーヴェンが苦しそうに胸を押さえると、すかさずエレナが「お兄ちゃん、お水よ」と手渡す。集まった人々から「まあ、大変ね」「若いのにお気の毒に」と優しい気遣いの声が飛んだ。
「……感謝いたします。今宵は、皆様に遠い異国の……『病を隠した美しき王国』の物語をお話ししましょう」
ルーヴェンの低く澄んだ声が響く。
「……むかしむかし、ある場所に一切の病も悲しみもない、完璧な楽園がありました。人々は争わず、誰もが互いを愛し、幸福に暮らしていました。……ですが、旅人がその街の地下に降りた時、恐ろしい事実を知ったのです。人々が感じるはずだった『怒り』『悲しみ』『苦痛』はすべて、地下に繋がれた一匹の毒蛇へと流し込まれ、溜め込まれていたということを……」
ルーヴェンの語りを聞きながら、集まった人々は穏やかに微笑んでいた。 しかし——その笑顔に、エレナは背筋が凍りつくような違和感を覚えた。
普通であれば、そのような不気味な物語を聞けば、客は眉をひそめたり、不気味がったりするはずだ。 だが、集まったエルフも、ドワーフも、人族も、まるで「悲しみ」や「不快感」という感情の引き出しそのものを失ってしまったかのように、ただただ穏やかに、機械的な微笑みを浮かべたままであった。
「……すばらしい物語ね」 エルフの女性がさざ波のような声で言った。
「でも、私たちのこの国には、そんな恐ろしい毒蛇なんていませんわ。世界樹様のご加護のもと、全員が幸福なのですから」
「そうですとも」 ドワーフの男も頷く。 「俺たちは仕事が好きだし、エルフの旦那方は優しい。悲しいことなんて何ひとつないさ」
人族の少女も、澄んだ瞳で微笑んでいた。
「毎日がとっても幸せです。怒ることなんて、生まれてから一度もありませんわ」
……怒ることが、一度もない。 悲しいことが、何ひとつない。
それは一見すると究極の理想郷に見えたが、人としての生き生きとした感情の起伏——『陰の感情』が根こそぎ綺麗に欠落している証拠でもあった。
物語を終えたルーヴェンは、静かに一礼し、銭を受け取って広場を後にした。
◆
夜。街の外れの宿の部屋で、エレナは窓の外にそびえ立つ暗闇の中の世界樹を見上げていた。
「……ルーヴェン。あの人たちの笑顔……どこか怖いですわ」
エレナは抱きかかえた自分の腕を擦った。
「皆さん、優しくて良い方ばかりなのに……まるで、心の一部が透けてしまっているみたいで……」
「……気づいたか、修道女」
ベッドに腰掛けたルーヴェンが、懐から『界の羅針盤』を取り出した。 針は、闇に沈む世界樹の最深部——地中深くに伸びる根の方角を真っ直ぐに指して、小刻みに震えている。
「『ニーズヘッグの顎』……呪毒を宿す聖遺物。俺は最初、それが物理的な『毒』だと思っていた」
ルーヴェンは冷ややかな声で言った。
「だが違ったのだ。あの聖遺物は……大陸中の生きとし生ける者たちから『負の感情』——怒り、嫉妬、憎悪、悲しみという名の『心の毒』を無制限に吸い上げ、蓄積させ続けているのだ」
「負の感情を……吸い上げている……?」
「そうだ。住人たちの心から負の感情を奪い去ることで、表面上は争いのない『完璧な偽りの楽園』を作り出している。……だが、考えてもみろ。吸い上げられた膨大な『心の呪毒』は、一体どこへ行っている?」
エレナは息を呑んだ。
二千年生きる呪術師の危惧。 大陸全土の数百万の命から、何十年、何百年と集められ続けた『憎悪と怨嗟の呪毒』。それが解き放たれずに、世界樹の根元にある聖遺物に溜まり続けているとしたら——。
「風船と同じだ」
ルーヴェンは静かに立ち上がり、外套を羽織った。
「限界まで膨らんだ毒の風船は……いずれ破裂する。その時、溜め込まれた数百年分の劇毒が大陸全土に逆流し、すべての生者を一瞬で狂気と腐敗の地獄へと叩き落とすだろう」
完璧な平穏の裏で、刻一刻と迫る世界の破滅。
「行くぞ、エレナ。世界樹の根元へ」
病弱な不老不死と元聖女は、静まり返る深緑の都を抜け、真の絶望が眠る大樹の地下へと足を踏み出そうとしていた。
(第十話 完)




