第五話:覇道の陰と、血塗られた独鈷
聖教国の追手を振り切り、広大な荒野を越えた街道の上。 乾いた風が吹き抜ける一本道を、二つの人影がゆっくりと歩いていた。
「……あ、あの……ルーヴェン。この格好、本当に変ではありませんでしょうか……?」
不安そうに自分の衣装の裾をつまみ上げながら尋ねたのは、エレナであった。
彼女はすでに、あの黒と白の象徴的な修道服を捨てていた。 修道女の証であった頭のヴェールを脱ぎ捨て、艶やかな栗色の髪を後頭部でひとつに結い上げている。身に纏っているのは、旅の行商人が好むような、動きやすい麻のチュニックと頑丈な革のパンツ、そして膝下まで覆うブーツであった。 一見すると、病弱な兄に同行して旅の手伝いをする「健気な妹」そのものである。
ルーヴェンは歩みを止めず、前を向いたまま「ゴホッ」と軽く咳き込んだ。
「変も何も、誰もそこらの少女がお尋ね者の『聖教国の聖女』だとは思うまい。……変装としては上出来だ。少なくとも、あの目立つ衣装で歩き回るよりは数倍マシだな」
「うぐっ……そう言っていただけると助かりますけれど……何だかすーすーして落ち着きません……」
今まで脚を露わにするような服を着たことがなかったエレナは、慣れないズボン姿に頬を赤らめながらモジモジと足を歩ませる。 だが、その胸元にはしっかりと、あのティアドロップ型の『パナケイアの雫』が服の中に隠され、ひっそりと彼女の体温を吸っていた。
二人が目指しているのは、今いる大陸の東方に位置する大国——『ヴァルカ皇国』であった。
かつては一平原の貧しい農耕国家に過ぎなかったその国は、ほんの数年前から突如として狂気的な軍国主義へと変貌。隣接する小国や部族を次々と武力でねじ伏せ、怒涛の勢いで領土を拡大し続けていた。
「……ルーヴェン。皇国が急速に強大化した理由も、やはり……『聖遺物』なのですか?」
エレナの問いに、ルーヴェンは外套の懐から古びた金属製の『界の羅針盤』を取り出した。 羅針盤の針は、他世界への扉を示すことなく、この同じ世界の東方——皇国の首都が存在する方角を真っ直ぐに指して固まっていた。
「ああ。同じ世界に二つ以上の聖遺物が同時に顕現することは稀だが、零れた神の欠片が重なることもある。……皇国の皇帝が手に入れたのは、『アスラの独鈷』と呼ばれる古代の戦争兵器だ」
「アスラの……独鈷……?」
「太古の戦神が打ち振るったとされる、金剛石の如き法具だ。所持する者に絶対的な闘志と超常の怪力を与え、兵たちの恐怖心を麻痺させて『死を恐れぬ狂戦士』へと変えさせる。……だが、その代償は悲惨なものだ。戦えば戦うほど、国全体が血の渇きに呑まれ、最後は自滅するまで侵略をやめられなくなる」
ルーヴェンは冷ややかな声で語る。
「数年前に突如始まった皇国の侵攻。その裏には、独鈷の狂気毒に冒された皇帝と、兵士たちの叫びがある。……放置すれば、この大陸全土が焦土と化すだろう」
エレナはゴクリと唾を呑み込んだ。 両親の命を奪った『パナケイアの雫』もまた悲劇を生んだが、皇国の持つ聖遺物は世界そのものを戦争の炎で包み込もうとしているのだ。
「行きましょう、ルーヴェン。その『アスラの独鈷』……これ以上の犠牲が出る前に、壊さなければなりません!」
「張り切るな、修道女。……俺たちは正面から軍隊と戦うわけではない。まずは潜入だ」
ルーヴェンはそう言うと、いつものように黒檀の横笛を取り出し、薄く口元を緩めた。
「道中の村々で『語り部』をしながら進むぞ。情報を集め、警戒を解き、静かに懐へ潜り込む。……病弱な兄と、健気な妹の旅の一座としてな」
◆
二人は国境の検問や混乱する宿場町を、ルーヴェンの「語り部」としての才能と呪術を駆使して軽々とすり抜けていった。
夕暮れ時、皇国の国境近くにある開拓村の広場。 そこには、日々の厳しい労働と戦争の徴兵の恐怖に怯える村人たちが集まっていた。
ルーヴェンが横笛を奏でる。 人々を惹きつける『誘引の呪言』を乗せた繊細で美しい音色が響き渡ると、殺伐としていた村の空気が瞬く間に和らいでいく。
「……さあ、みなさん。今宵はお集まりいただき感謝いたします」
ルーヴェンは胸を押さえ、「ゴホゴホッ!」と痛々しく咳き込んでみせた。 すかさず傍らに立つエレナが、「お兄ちゃん、大丈夫!? 水を飲んで!」と駆け寄り、心配そうに小瓶の水を手渡す。その完璧な演技(半分は本気の心配)に、集まった村人たちは「まあ、なんて健気な妹さんだ」「あの兄さん、大丈夫かい」と同情の眼差しを向けた。
「すまないね、エレナ。……ゴホッ。皆さんも、ご心配なく。私はただの病弱な語り部。……今夜は、遠い昔に存在した『愚かな王と血の宝剣』の物語をお話ししましょう」
ルーヴェンの低く澄んだ声が広場に響く。
「……むかしむかし、ある国に何不自由なく暮らす王がおりました。王は更なる力を望み、悪魔から『絶対に負けない宝剣』を授かりました。王はその剣を振りかざし、隣国を滅ぼし、世界を征服しようとしました。……しかし、王は気づかなかったのです。その剣を抜くたび、自分の愛する国民たちの『正気』が失われ、皆が狂人へと変わっていくことに……」
村人たちは固唾を呑んでルーヴェンの語りに引き込まれていた。 現在の自分たちの状況——皇国の皇帝が狂ったように戦争を推し進め、村から若者が次々と連れ去られていく現状と、あまりにも重なっていたからだ。
「……最終的に、王は全世界を手に入れました。ですが、振り返ったとき、そこにいたのは笑顔の国民ではなく、互いに血を流し合う亡者たちの群れだけでした。王は一人、誰もいない玉座で命を絶ったのです。……都合の良い奇跡など、この世には存在しないのですから」
静まり返る広場。 物語が終わると、村人たちからは惜しみない拍手と、少しの食べ物や銭が差し出された。
ルーヴェンはそれらをありがたく受け取りながら、さりげなく村の長老に問いかけた。
「……時に長老様。皇国の都へと向かう街道は、今どのような状況でしょうか? 私のような病人が通っても差し支えないものでしょうか」
長老は周囲を警戒するように声をひそめ、悲しげに首を振った。
「やめておきなされ、語り部さん。都へ近づけば近づくほど、徴兵の検問が厳しくなっておる。最近の皇帝陛下は……まるで取り憑かれたように『全土侵攻』を命じておられるのだ。兵士たちの目も血走り、まるで人ではなく野獣のようじゃ……。お前さんのような病人は、巻き込まれて殺されてしまうぞ」
「……左様ですか。恐ろしいことです……」
ルーヴェンは弱々しく頭を下げたが、その黒い瞳の奥には冷徹な確信が宿っていた。
(間違いない。『アスラの独鈷』の狂気毒が、すでに都を中心に広がりきっている。……手遅れになる前に、皇帝の元へ届かねばな)
◆
その夜。村の外れの粗末な小屋で、二人は身を寄せていた。
干し草の上に座り、小瓶の水で手と顔を洗ったエレナは、神妙な面持ちでルーヴェンを見つめた。
「……ルーヴェン。あの物語は、意図して語られたのですね。村人たちに、皇国の異常さを気づかせるために……」
「ただの暇つぶしだ」
ルーヴェンは素気無く答えると、外套を乱暴に引っ張り上げて横になった。
「だが、長老の言葉通り、都の警戒は尋常ではない。皇帝は『アスラの独鈷』の力に完全に呑まれ、国全体を狂気の陣形へと変えつつある。……正面から乗り込めば、何千という狂戦士の兵団とやり合うことになるぞ」
「……恐ろしいですか?」
「俺が知るか。俺は死なん」
ルーヴェンは呆れたように吐き捨てた。
「だが、お前は一撃で死ぬ。……エレナ、ここから先は今までのような甘い旅ではないぞ。刺客を退けるのとは訳が違う。……後悔するなら、この村に置いていってやってもいいんだぞ」
意地悪く告げるルーヴェン。 しかし、エレナは恐れることなく、まっすぐにルーヴェンの顔を見つめ返した。
「後悔なんてしません。……私は、あなたと一緒にいきます。あの物語のように、国が、人々が狂気で滅んでいくのを黙って見ていたくはありませんから。……それに」
エレナは少し頬を緩め、照れくさそうに微笑んだ。
「私がついていかないと、誰があなたの病弱な演技のフォローをするのですか? 『健気な妹』役は、けっこう評判がよかったでしょう?」
「……フン。調子に乗るな、小娘が」
ルーヴェンはフイッと顔を背けたが、その唇の端がかすかに緩んでいるのを、エレナは見逃さなかった。
窓の外、東の空には禍々しく赤く輝く星が浮かんでいた。 皇国の都で解き放たれようとしている、狂気の聖遺物『アスラの独鈷』。
不老不死の呪術師と、変装した元聖女の二人は、血と破滅に塗れた覇権国家の渦中へと、静かに踏み出していくのだった。
(第五話 完)




