第四話:灰燼の聖堂と、旅立ちの誓い
静寂が、再び壊された聖堂を満たしていた。
散らばるステンドグラスの破片が、月光を反射して青白く揺らめいている。その結晶の海の中に倒れ伏すのは、先ほどまでエレナの命と『パナケイアの雫』を狙っていた『黒の蛇』の刺客たちであった。 外傷も血の一滴すらない。ただただ魂の根底を『死鎖呪詛』によって引き抜かれ、泥人形のように打ち捨てられている。
「……あ……あ……」
エレナは床に座り込んだまま、喉を細く鳴らすことしかできなかった。 目の前の光景が信じられなかった。一国の精鋭騎士すら煙幕と暗黒の結界で無力化されたというのに、目の前に立つ青白く痩せこけた青年は、ただ指を鳴らしただけで刺客全員を即死させたのだ。
神聖な奇跡などではない。それどころか、聖教国の教義においては明確に「禁忌」と禁じられている、凶悪にしておぞましい呪術の極致。
ルーヴェンは静かに呼吸を整えると、胸を押さえて「ゴホッ、ゴホッ!」と重々しく咳き込んだ。 先ほどの冷徹な『神殺しの呪術師』の顔から、一瞬で「いつ死んでもおかしくない病弱な旅人」の顔へと戻る。そのあまりの脱力感とギャップに、エレナは頭が眩むような錯覚を覚えた。
「……ふぅ。身体に響くな。やはり、現世の呪力を行使するのは骨が折れる」
ルーヴェンは外套の裾を払いながら、ゆっくりとエレナへと歩み寄った。
「ひっ……!」
エレナは思わず身をすくめ、胸元のティアドロップ型結晶——『パナケイアの雫』を両手で固く抱きしめた。 刺客は倒された。だが、目の前にいるこの男もまた、聖教国の常識から外れた怪物だ。自分はいま、化け物を退けたさらに巨大な化け物の前に晒されているのではないか。
ルーヴェンはそんな少女の恐怖を悟りながらも、表情を変えずにその場に屈み込んだ。 彼の黒い瞳が、まっすぐにエレナの瞳と交差する。そこにあるのは無慈悲な殺意でも、聖遺物への途方もない欲望でもなかった。ただ……気の遠くなるような二千年の歳月を生き抜いてきた者だけが持つ、深く澄んだ寂寥感であった。
「……恐怖するのは無理もない、修道女。だが、安心しろ。俺はお前を害しはしない。……そのペンダントも、奪い取りはしない」
「……どうして……?」
エレナの声が震える。
「あなたは……聖遺物を破壊し、封印するために旅をしていると言いましたわ。なら、なぜ私の……私のこの『パナケイアの雫』を奪わないのですか……! これもまた、人を狂わせる悪しき奇跡だというのに……!」
叫ぶエレナの目から、溢れ出た涙が頬を伝って零れ落ちた。 両親を殺し、自分を追われる身にし、世界を混乱に陥れる元凶。こんなものさえなければ、自分はただの少女として、愛する家族とともに平和に暮らせていたはずなのだ。
ルーヴェンは一瞬だけ目を細め、静かに首を振った。
「奪わないのではない。……いま壊せば、お前が死ぬからだ」
「……え……?」
エレナの涙がピタリと止まる。
「『パナケイアの雫』——万能薬の概念を宿すその聖遺物は、すでに宿主であるお前の生命力と深く同化している。両親を失った絶望の際、あるいは命の危機に瀕した際、お前はこの雫の力と魂を契約させてしまったはずだ」
ルーヴェンはそっと指先を伸ばし、エレナの胸元で微かに脈打つ水晶を指し示した。
「いま俺がこの聖遺物を破壊すれば、その反動でお前の魂も砕け散る。……俺の目的は『世界を狂わせる聖遺物の封印と破壊』だが、それに伴って無垢な人間の命を散らすつもりはない」
「……そんな……」
「お前がこの雫の呪縛から解き放たれ、一人の人間として正しく生きられる術……あるいは、お前の生命と同化を解く方法を探す。それが、俺がお前に提示できる唯一の猶予だ」
ルーヴェンの言葉は冷徹であったが、その奥底には確かな救いの響きがあった。
その時——。
「あそこにいるぞ! 聖堂の中に侵入者が入った!!」 「刺客どもを追え! 聖女様をお守りしろ!!」
聖堂の外から、慌ただしい無数の足音と甲冑の擦れる金属音が近づいてきた。 煙幕が薄れ、気絶していた見張りの聖騎士たちが目を覚まし始めると同時に、大修道院の本隊が押し寄せてきたのだ。
「くっ……お頭が殺られている!?」 「何が起こったんだ!?」
外で控えていた『黒の蛇』の残党たちが、悲鳴を上げて混乱に陥っている。
ルーヴェンは立ち上がり、懐からあの古びた金属製の『界の羅針盤』を取り出した。羅針盤の針が、狂ったように回転したあと、聖堂の裏手に広がる深い森の方角を指して固定される。
「さて……ゆっくり話している時間はないようだ」
ルーヴェンはエレナに向かって、ひょいと右手差し出した。
「選べ、修道女。このまま聖教国のアライグマどもに護衛という名の『籠の鳥』として飼われ続け、いずれまた別の刺客に狙われて死ぬか。……それとも、俺とともに世界を巡り、その身を蝕む呪い(奇跡)を解く旅に出るか」
「ッ……!」
エレナは息を飲んだ。 聖教国は彼女を守ってくれている。しかしそれは、「奇跡の聖女」という便利な象徴として、重厚な牢獄に閉じ込めているに過ぎないことも、彼女自身よく理解していた。
両親の死。奪われた自由。そして、胸元で冷たく光る『パナケイアの雫』。
少女の心の中で、何かが弾けた。 彼女は差し出されたルーヴェンの手——冷たく、青白く、しかし驚くほど力強いその手を、両手で固く握りしめた。
「……連れて行ってください! 私は……私は、自分の運命から逃げたくありません!」
「いい返事だ」
ルーヴェンは薄く口元を緩めると、もう片方の手で『罔象女神の清水』の小瓶を取り出し、そのフタを跳ね飛ばした。
「『水龍呪・渦流破』」
小瓶から溢れ出た一滴の水が、瞬く間に濁流となり、さらには巨大な水の龍へと姿を変えて聖堂内を駆け巡った。 迫り来る聖騎士たちの前で膨れ上がった水の壁は、一切の危害を加えることなく彼らの足止めを果たし、聖堂の裏壁を豪快に押し流して巨大な脱出路を作り出した。
「うわあああッ! 水害か!? どこからこれほどの水が!?」 「聖女様! 聖女様はどちらだ!?」
喧騒と悲鳴が遠ざかっていく。 水龍の背に乗るようにして夜の風へと躍り出た二人は、追手たちの叫び声を置き去りにし、闇に包まれた深い森の中へと消えていった。
◆
夜が明ける直前。 聖教国の国境を遥かに離れた、見渡す限りの広大な荒野。
岩陰に身を潜めたエレナは、荒い息を吐きながら地面に座り込んでいた。 修道服の裾は泥と水で汚れ、夜露に濡れた体は小さく震えている。生まれて初めて「籠の鳥」の檻を飛び出し、夜通し走り続けた疲労が、十五歳の少女の体に重くのしかかっていた。
「ハァ……ハァ……っ」
その隣で、ルーヴェンは静かに岩に腰掛け、小瓶のフタを閉めていた。 相変わらず青白い顔をし、「ゴホッ」と軽く咳き込んではいるが、夜通し走ったとは思えないほど呼吸は乱れていない。
エレナはおそるおそる、目の前の「謎多き青年」を見上げた。
「あのアノ……ルーヴェン様」
「様などつけるな。俺はただの病弱な語り部だ。ルーヴェンでいい」
「……ルーヴェン。……先ほど使われたお水術や、刺客を一瞬で倒された術……あなたは一体、何者なのですか? 聖教国の文献にも、あのような恐ろしい呪術の記録はありませんでした」
エレナの純粋な疑問に、ルーヴェンは遠い目をした。 夜明けの薄桃色の光が、彼の横顔を淡く照らし出す。その瞳に宿るのは、人間一人には到底抱えきれない、果てしない歴史の重みであった。
「……ただの、生きた死人だ」
ルーヴェンは自嘲気味に呟いた。
「今からおよそ二千年前……俺はただの貧しい泥棒の青年に過ぎなかった。病の妹を救うため、ある豪商の宝物庫から一つの『金色の盃』を盗み出した。……それが、すべての始まりだ」
エレナは息を呑み、彼の語りに引き込まれていった。第2話で聞いた「語り部」としての声ではなく、彼自身の魂が削り出す、真実の物語。
「その盃の水に満たされた『祝福』を飲み干した瞬間、俺の時間は永久に停止した。老いることも、病で死ぬことも、刀傷で倒れることもない。……俺を祝福したその盃は『世界の観測者となれ』と言い残し、粒子となって消え去った」
「二千年……不老不死……!?」
「そうだ。俺は二千年の間、自分をこんな身体に変えたあの『金色の盃』を探し続けている。……己の永遠の生を終わらせ、正しく死を迎えるために」
ルーヴェンは胸元から『界の羅針盤』を取り出し、愛おしそうに指で撫でた。
「そして旅の途中、俺は知った。神々が遺した『聖遺物』という存在が、いかに人々の欲望を狂わせ、世界を滅びへと導くかということを。だから俺は決めたのだ。自分を呪縛した盃を探すついでに……世界に散らばる歪んだ奇跡を、この手で封印し、あるいは破壊して回ると」
語り終えたルーヴェンは、ふっと息を吐き出し、いつもの無表情に戻った。
「これが俺の正体だ。幻滅したか? 人間の理を外れた、気味の悪い化け物だと……」
「いいえ!」
エレナは強く首を振った。 彼女の瞳には、先ほどまでの恐怖は微塵もなかった。ただ、二千年の孤独をたった一人で背負い続けてきた目の前の青年に対する、深い痛ましさと尊敬の光が宿っていた。
「私……感謝しています。私を助けてくださったこと。そして、私の運命に向き合ってくださったこと。……私、あなたの旅についていきます。私の『パナケイアの雫』の呪いが解けるその日まで……そして、あなたが正しく救われるその日まで!」
十五歳の修道女が見せた、凛とした強い意志。 ルーヴェンは一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くしたが、やがて呆れたように鼻で笑った。
「……おめでたい奴だな。俺の旅は優雅な観光旅行などではないぞ。立ち塞がる者は神であれ悪魔であれ呪い殺す、地獄のような壊世の旅だ」
「構いません! 私もただ守られるだけの『聖女』でいるつもりはありませんから!」
胸を張るエレナ。その胸元で、『パナケイアの雫』が朝日に照らされ、温かな奇跡の輝きを放っていた。
ルーヴェンは「ゴホゴホ」と胸を押さえて咳き込むと、病弱な足取りで立ち上がった。
「……まあいい。足手まといになったら捨てていくからな」
「意地悪を言わないでください!」
朝靄が晴れていく荒野の中、二人の影が長く伸びていく。 二千年の孤独を抱く不老不死の呪術師と、奇跡の宿命を背負った十五歳の修道女。
『界の羅針盤』の針が、新たな異世界——未知の聖遺物が眠る地へと向かって、静かに回転を始めたのだった。




