第8話 清さんの持ち主の、壮絶な人生①
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――清さんは、もう二度と戻らない時間を語り始めた。
語られるたびに削れてしまいそうなほど、脆く優しい時間を。
清さんの前の持ち主は、医者を目指していた青年だったという。
彼には年の離れた妹がいて、お琴と同じくらいの年だったらしい。
時代は大正。
流行り病で両親を亡くし、二人は親戚の家に引き取られていたそうだ。
『親戚の家でいい扱いを受けていたという印象はありません……ご飯は家族の人々が食べるものとは違い質素なものでしたし、主の妹はいつもお腹を空かせていた……』
小さな手が空の茶碗を抱えたまま震えていた光景が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。
『それでも妹のお鈴さんは兄である宗司さんに心配掛けまいと元気に振舞っていました。宗司さんも同じように腹を空かせているのだから我慢せねばならないと思っていたのでしょう』
「……酷い扱いだったんだな」
お琴くらいの年の子が、そんなに我慢しなきゃいけないなんて――。
当時の現実を想像するだけで、胸が締めつけられる。
なんでこんなことが許されるんだ……。
どうしてそんな酷い目にあわせることができるんだ……。
理不尽過ぎて……あまりにも酷くて……っ!
――親戚という人たちに対して怒りがこみ上げてきた。
俺の気持ちを代弁するかのように指先が白くなるほど拳を握りしめていた。
そんな中でも、清さんは涙を流しつつ語ってくれた……。
『居候の身では強く言えないのも仕方の無い事……宗司さんは少しでもお鈴の為にと医師を志し、日々勉学に励みました。親戚の者たちも居候の身の上の者が医者になれば家に箔がつくと考えていたようです』
だからこそ宗司さんは、寝る時間を削ってまで勉強を続けていたという。
すべては――お腹を空かせた、たった一人の妹のために。
でも――その努力の果てに、待っていたのは悲しい現実だった。
『けれど無理が祟ったのか、宗司さんは結核になってしまった……。それも致し方ない現状があったからです』
「……それはどうして」
『宗司さんと妹のお鈴の部屋はとても寒く、障子も穴だらけ……冬の寒さを耐えるには辛すぎる状態でした』
(……そんな部屋で冬を耐えるなんて、どう考えても無理だろ……)
薄い布団に宗司さんが白い息を吐く情景が、胸の奥でひやりと広がる。
障子の穴から吹き込む夜風に、小さな肩が震えている――。
そんな一瞬の脳裏に浮かんだ姿が胸に刺さる。
……清さんの声がだんだん小さくなっていく。
ふと見ると、うつむいた顔に涙が一筋こぼれていた。
言葉を選べば選ぶほど、何も届かないような気がした……。
だから俺は、そっとポケットからハンカチを取り出した。
「……泣きたい時は泣いた方がいい」
それくらいの事しか……出来なかった。
清さんはおそるおそるハンカチを受け取り、目元を押さえた。
肩を震わせながら、声を出さずに泣いている。
俺は黙って、それが落ち着くのを待った。
「……ごめんな。俺が聞いて良いことではなかっただろう?」
申し訳なさに胸が締めつけられ、俺は頭を下げた。
すると清さんは、何度も首を横に振って、まっすぐこちらを見てくれた。
『僕もいつかは貴方に話さねばと思っていたのです。ただいつどう話せばいいかわからなくって……逃げていたのは僕のほうです』
「清さん……」
『どうか僕の話を最後まで聞いて欲しい……僕の独りよがりであっても』
その言葉に、俺は強くうなずいた。
清さんは涙を流しながらも、少しだけ安心したような顔をしていた。
けれど――清さんが語ってくれたのは、胸が苦しくなるような真実だった。
結核を患った宗司さんは、ろくに治療を受けることもできず、隔離された。
まだ小さなお鈴さんには、兄がどれほど重い病気にかかっているのか、理解できなかったらしい。
だから「会いたい」と何度も何度も、泣きながら駄々をこねていたという。
……でも宗司さんは、願いを受け入れることができなかった。
(――当時、結核は恐れられていた。宗司さんが会わなかったのも当然だ)
だから宗司さんは、大好きな妹と会うことを、わざと避けつづけたという。
『お兄ちゃんに会いたいと泣き叫ぶお鈴さんを、宗司さんは突き放し「駄々をこねるな」と……。それだけじゃない。
宗司さんが動けないことを良いことに、親戚の者たちはお鈴さんに暴力を振るいました。障子の穴から見える光景はまさに生き地獄です……』
「……酷いことを」
胸の奥で、どうしようもない怒りがじわりと広がった。
『両頬を真っ赤になるほど叩かれ、髪を引っ張られて――』
その瞬間、震える肩を必死に押さえ込んで泣くお鈴さんの姿が浮かぶようだった。
気づかぬうちに、指先が強く握りしめられていた。
――虐待。
宗司さんという、たった一人の「守ってくれる人」が病気になったとたん、親戚たちは、お鈴さんにストレスをぶつけるように扱い始めたという。
冬でも冷たい水を浴びせられ、「寒い」と言えば家の外に放り出される。
宗司さんは弱った体を引きずりながら、なんとか妹を家の中に戻そうとした。
だけど――。
『お兄ちゃんもこの家の人たちと同じ、人殺しだと……お兄ちゃんは人殺しの医者だと泣き喚きました。宗司さんはその言葉を飲み込み、立ち去ったお鈴さんをただジッと見つめるしか無かった……』
医療の進んだ現代ならそういうことは無かっただろう……。
いや、それ以前に虐待なんて事は、起こりはしなかっただろう……。
今を思っても仕方ないのは分かっている。
けれど、そう思わないと俺の心のほうが悲鳴を上げそうな気がした。
そのとき宗司さんが感じた悔しさや悲しみ、痛みは、どれ程だったんだろう。
俺には――想像もつかない。
けど俺はまだ、宗司の最期を知らなかった。
この夜の月明かりが、あの最期へ続く道だとは――まだ何も知らなかった。
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