第42話 戻る桔梗さんと、戻ってきた日常
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森田の影の一件がようやく終わった夜。
俺は庭に出て、簪をそっと手に取った。
銀の光を受けて、桔梗さんの姿がふわりとあらわれる。
『光一様……あちきをお呼びでありんすか?』
その声は、あの日より穏やかだった。
長く縛っていたものが、ようやく解けてきたのだろう。
「桔梗さん……調子はどうだ?」
『あちきは……もう、大丈夫でありんす。大椿太夫としての悲しみも……小次郎様の未練も……光一様が、ようほどいてくださんしたゆえ……』
桔梗さんは簪に触れながら、ほんのかすかに微笑んだ。
『ただ……あちきは、人の道具として長う在りすぎてしまいんした。魂がもう、疲れ切っておりんして……このままでは……いずれ消えてしまいんす……』
「……消える?」
胸がざわついたが、桔梗さんは首を振る。
『けれど……光一様が守ってくださんしたおかげで……今のあちきは〝帰る場所〟がどこなのか……よう分かるようになりんした』
帰る場所……それってまさか。
そう思い肩を見ると、ヒイラギが頷いた。
『主。暁様と宵様は、迷った付喪神の魂を静かに保つ〝守り手〟なのだ。帰りたい者には居場所を与え、穏やかに暮らせる場をつくる』
(……暁様と宵様……そんな力があったのか)
『光一様……あちきを、暁様と宵様のお側へ……送り届けてくだしゃんせ……』
「……送り届ける?」
『黄泉送りではありんせん。ただの〝お見送り〟でありんす。戻るだけでありんす……あの、やさしうてお優しいお二方のもとへ』
桔梗さんの表情は、まるで遠くの実家へ帰る娘のように柔らかかった。
「なら……行こう。暁様と宵様のところへ」
『ありがとうござんす……光一様……』
◇◇◇
神社への道は、前より明るく感じた。
空気が澄んでいて、夜の風が優しい。
神社に着くと――そこには暁様と宵様が静かに立っていた。
暁様は桔梗さんを見るなり、小さく微笑んだ。
『……迷っていた魂よ。よく戻ってきましたね。さぁこちらへ。あなたの夜は、もう独りではありません』
その一言だけで、桔梗さんの肩が震えた。
『暁様……宵様……。あちき……ようやく……』
『長い間悲しみに囚われ、よく耐えましたね。こちらへ来なさい。あなたの魂はもう、休んで良いのです』
桔梗さんは涙をこぼしながら、俯いた。
『……光一様。あちきの……ほんとうの願いを、黄泉送りで叶えてくださんして……ほんに……かたじけのうござりました……』
「桔梗さんが笑えるなら、それだけで十分だ」
『光一様の灯り……あちき、決して忘れませぬ。これからは……暁様と宵様の元で……幸せに暮らしんす』
神社の奥からあたたかな光が溢れ、桔梗さんの身体を包み込む。
まるで光の布団にくるまるような、安心した表情だった。
『光一様……どうか……お元気でありんして……』
桔梗さんの輪郭が薄れ、光の粒となって、暁様の掌へ吸い込まれていった。
そして――静かに神社の奥のどこかで、扉が閉まる音が聞こえ……。
気づけば俺とヒイラギだけが、その場に立っていた。
……帰り道、ヒイラギがぽつりと言う。
『主……桔梗は幸せになる。あれは〝終わり〟ではなくて、〝旅立ち〟だ』
「……ああ。本当に、幸せになってほしいよ」
夜空には、一等星がひとつだけ、やけに強く輝いていた。
そこに願いを込めるように、俺は心で呟く……。
(桔梗さん……ゆっくり休んでくれよ)
――そう願わずにはいられなかった。
◇◇◇◇
桔梗さんを暁様と宵様の元へ送り届けた翌日。
驚くほど普通の朝がやってきた。
祖母の作った、湯気の立つ味噌汁の匂い。
焼き鮭の皮がぱりっと音を立てる。
食卓に並ぶのは、どこにでもある朝食だ。
(……あぁ。こういうのが、いちばんいいんだよな)
昨日までの出来事が、夢だったみたいに思えてくる。
『主、ぼうっとしておる。飯が冷めるぞ』
ヒイラギが文句を言いながら、箸の横でちょこんと座っている。
白の羽根が湯気でふわふわ揺れた。
「わかってるよ。……でもさ、ほんと無事でよかったよな」
『主が無事だからこそ言える台詞だな。まったく……心臓がいくつあっても足りんわ』
ぶつくさ言いながら、ヒイラギは俺の茶碗の横に行儀よく座る。
(森田も……桔梗さんも……みんな、なんとかなった)
心の底から……息がつけた。
――食後、家を出る。
空気は澄んで、学校へ向かう道を照らす日差しは、秋になりかけにしては、やけに優しい。
(……見える世界も、静かだ)
森田の影の気配もない。
学校の旧校舎の方を見ても、以前感じた〝ざわつき〟が冗談みたいに消えている。
校門の前では、小林が手を振っていた。
「光――! お前、顔色戻ったな!」
「お前こそな。もう森田に会ったか?」
「さっきな。……なんか〝普通に〟戻ってたわ。あいつ、一昨日のこと謝りに来たし」
「……戻れて、よかったな」
「だな。あいつ、これから二度とアプリで怪異ネタやらねぇって言ってた。〝普通がいい〟とか言い出してたぞ。笑っちまった」
俺もつられて笑ってしまう。
(普通でいい。普通が、一番いいんだよ)
教室に入れば、机の上には昨日までと同じプリント。
誰かの笑い声。
黒板に残ったチョークの粉。
どれもこれも――戻ってきた〝日常〟だった。
『主、今日の放課後は休むのだぞ』
「わかってるって。今日は……何もしない」
――本当に、何もしない。
ただ、ゆっくり息をして、いつも通り生きるだけで十分だ。
俺は自分の席に座り、窓の外を見る。
風に揺れる校庭の木々が、どこか懐かしい。
遠くの空は、どこまでも澄んでいた。
――こうして、俺の日常は静かに戻ってきた。
まるで優しい蝋燭が照らしてくれているかのように……温かく、優しく、穏やかに。
森田のことも、桔梗さんのことも何とかなった。
あとは……千手観音様から出された〝課題〟と、お琴が〝徳〟を積むこと。
これは、皆に話さないと……いけないんだろうなぁ。
言ったら絶対、面倒くさいことになる。
覚悟しておこう……。
秋色に若干染まりつつある空の青さに、俺は小さく息を吐いた――。
これにて最後、2話更新しております。
最後までお付き合いしていただけると幸いですm(_ _)m




