第40話 千の手によって――
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――首を絞めていた森田の手が、ビクリと震える。
次の瞬間、俺の喉から圧迫がふっと消えた。
膝から崩れ落ちる俺の目の前で――無数の〝手〟が、森田と俺の間にすっと差し込まれ、幾つかの腕は俺を抱きしめた。
――白く、細く、しかしどこまでも力強い〝千の手〟。
その中心に、柔らかくも厳かな顔をした〝誰か〟がいた。
千手観音様――。
赤い曼珠沙華が、足元から咲き広がるように現れる。
校舎裏のコンクリートは、いつの間にか薄い水面のように波打っていた。
『光一。生きている者に無理矢理黄泉送りを施せば――そなたの灯が先に燃え尽きる』
観音様の声が、胸の奥に直接響く。
「……っ、すみ……ませ……っ」
――喉が焼けるように痛い。
呼吸をするたび、肺がキリキリと軋んだ。
観音様のいくつもある手のうちの一つが、そっと俺の胸元に触れる。
その瞬間、体の中で暴れていた何かが、少しだけ静まった。
『よく持ちこたえた。だが――これ以上は、そなたの命がもたぬ』
別の手が、森田の胸に触れた。
黒い靄が、まるで火にあぶられた虫のようにジジジッと音を立てて震える。
「……っ、や……め……」
森田の声が、苦しげに漏れた。
影が、観音様の腕を伝って逃げようとする。
『鬼の欠片。そなたには、この子は〝重すぎる〟』
曼珠沙華の花びらが、風もないのに舞い上がる。
それが、黒い靄に触れるたび、ジリ、と音を立てて削れていく。
『ここまでだ。この子の〝初めの一歩〟までは、返してもらう』
観音様の手がひとつ、ぎゅっと握られる。
黒い靄が――弾けた。
静かな破裂音とともに、森田の背後の影が霧散する。
残った黒い塊だけが、どろりと地面に落ちかけて――。
『その残滓は、いずれ別の場所で〝影〟として生まれよう。それを完全に絶つことは、人の世では叶わぬ』
観音様は、落ちかけた黒を指先でつまみ上げるようにして、空へ放った。
それは夜の闇へ溶けるように見え――次の瞬間、何もなかったかのように消える。
『だが、ここでこの子を〝鬼〟にはせぬ。それが、今回の私の働きだ』
森田の膝が崩れ、その場に倒れ込んだ。
――呼吸はある。
ただ顔から血の気が引いていて、目を閉じている。
「……森田」
思わず手を伸ばそうとして――自分の視界がぐらりと揺れた。
その体を千手観音様の腕が抱きとめる。
俺の胸の奥から、光る靄のようなものが一筋、ふわりと抜けていくのが見えた。
(……また……削れた……のか)
『灯が揺れておるぞ、光一。無闇に削るでないと言ったはずだ』
「……すみません。……でも、放っておけなかった」
かすれた声でそう答えると、観音様の口元がわずかに緩んだ。
『それでよい。そなたが〝見捨てる〟選択を取らぬことは、初めからわかっていた』
「……じゃあ、最初から、助けてくれるつもりだったんですか」
『そなたが〝選ぶ〟までは手出しできぬ。これは、神仏の側の〝決まり事〟だ』
観音様は、すっと目を細める。
『森田は自ら望んで影を招き入れた。だが、まだ完全には〝向こう側〟を選びきっていない』
「……よかった」
『ゆえに――灯を削ってまでも手を伸ばしたそなたに免じて、一度だけ手を貸した』
「一度だけ、ですか」
『二度も三度も、神頼みをするでない。そなたの灯は、そなた自身で守り育てよ』
優しいけれど――突き放すような言葉。
それが、かえって胸に沁みる……。
『忘れるな、光一。鬼は天から降ってくるものではない。人の心から、生まれる影だ』
観音様の視線が、倒れている森田へ向かう。
『この子が再び影を招くかどうかは――この子自身の生き方次第。そなたは、ただ傍で〝見ておる〟ことしかできぬ』
「それでも――」
喉を鳴らし、言葉を絞り出す。
――酷いやつだって分かってる。
どれだけ他人を弄んでいたのかも……。
それでも、心を入れ替えてくれると信じたい――だから!
「それでも、もう一度……〝友達〟だって、言いたいです」
俺の心からの、甘いくせに、馬鹿げてるかもしれないけど……本当の願い。
観音様は、ほんの少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
次いで、ふわりと微笑む。
『愚かで、尊い願いだ』
曼珠沙華が、音もなく散り始める。
水面のようだった地面も、いつの間にかただのコンクリートに戻っていた。
『光一。そなたの灯は、まだ〝春の火〟ほどには残っておる。だが焚きすぎれば、春の火はすぐに尽きる。――付喪神を救い、徳を積め。さすれば、お前の火も少しは戻るだろう』
(……付喪神を救うことが、俺の宿題ってわけか)
千手観音様の姿が、薄くなっていく。
『どうか――声なきもののために灯す火と、自らと友のために灯す火を、間違えるな』
――どっちも大事だ。
でも、どっちか一つだけを選び続けても駄目なんだ。
最後の一枚の花びらが風に乗り、空へ吸い込まれた。
――千手観音の気配は、静かに消えていた。
「……はぁ……」
その場にへたり込み、俺は大きく息を吐いた。
喉が痛い。胸も、身体の節々も軋むように痛む。
指先がまだかすかに震えていて、握った拳に力が入らない。
『主……生きておるか……?』
「ああ……なんとか、な」
ヒイラギがホッとしたように肩の上で丸くなる。
その温もりが、やけに心に染みた。
「森田……」
ゆっくりと、倒れている森田に近づく。
その顔は――いつもの、見慣れた森田の顔だった。
陰りはあっても、さっきまでの〝影に喰われた顔〟ではない。
「……バカ野郎」
小さく呟きながら、身体から力が一瞬抜けかける。
「お前なぁ……。人の不幸でバズってんじゃねぇよ……」
呆れたように、そう言った瞬間――森田の指が、かすかに動いた。
「……ん……ここ……どこだ……?」
まぶたが震え、ゆっくりと開かれる。
焦点の合わない目が、俺を見上げた。
「校舎裏……覚えてないのか?」
「校舎裏……?」
森田は、しばらく空を見つめ――やがて、顔を歪めた。
「……頭、いてぇ……。なんか……変な夢、見てた気がする」
「どんな夢だ」
「……よく、覚えてねぇ。でも……最悪な夢だってことだけは、わかる」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
(――まだ〝戻れる〟)
観音様の言葉が――静かに胸に残っていた。
鬼は天から降ってくるものじゃない。
人の心から、生まれる影――。
(だったら、森田がまた影を招くかどうかは――)
きっと、これからの――俺たち次第なんだろう。
俺はゆっくりと……森田に手を差し出した。
「とりあえず、保健室行くぞ。二人まとめてな」
「……は? なんで俺まで?」
「お前の頭の中も、一回見てもらったほうがいい」
そう言って笑うと、森田は一瞬きょとんとした。
次いで、疲れたように、でもどこかホッとした顔で笑い返した。
「……ったく。お前ってやつは……」
その手を、森田はしっかり掴んだ。
――決戦の日は、こうして終わった。
……鬼は消えたわけじゃない。
世界のどこかで、また誰かの影から生まれるのかもしれない。
それでも今は――。
(森田。お前を〝送らずに済んだ〟ことだけは……)
心の中で……そっと安堵の息を吐いた。
(千手観音様……ありがとうございます)
胸の奥で小さく手を合わせながら、俺は森田を引き起こした――。
まだ頼りないけれど――その灯だけは、絶対に手放さないと決めながら。
楽しんでいただけていたらいいんですが……(;´Д`)
今回で完結するので、夜は2話更新します。
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