第16判定:システムの外側と、重なるログ
放課後の廊下を歩いていると、前方に見慣れたゴールドバッジの背中があった。
佐伯先輩だった。
「……先輩」
気づけば声をかけていた。
計算より先に、口が動いていた。
先輩は足を止め、振り返る。
「何かしら」
「……どこへ行くんですか」
我ながら、意味のない問いだと思った。
けれど先輩は怪訝な顔もせず、ただ静かに言った。
「屋上よ。……来る?」
◇
旧校舎の屋上へ続く扉は、施錠されているはずだった。
けれど佐伯先輩は迷いなく扉に近づき、端末を一度かざすと、音もなく開いた。
「……管理官候補の権限ですか」
「緊急時の安全確認という名目でね」
先輩は淡々と言いながら、先に外へ出た。
私は一瞬だけ躊躇し、それから後に続いた。
◇
屋上には、風があった。
管理された学園の空気とは違う、制御されていない、生きた風。
視界の端に、学園を囲む高周波フェンスが見える。 その向こうに、夕暮れの街が広がっていた。
「……よく来るんですか、ここに」
「たまにね」
先輩はフェンスから少し離れた場所に立ち、街を見下ろした。
「監視カメラの死角よ、ここ。旧校舎の改修工事の際に、設置が漏れた場所」
「……なぜ私に教えるんですか」
「あなたなら、すでに知っていると思ったから」
私は、何も言えなかった。
実際、地下ピットを探した時に、この場所の存在にも気づいていた。
ただ、屋上は目立ちすぎると判断して、選ばなかっただけだ。
「……正解です」
「でしょう」
先輩はわずかに口元を緩めた。
それが笑みだと気づくのに、少し時間がかかった。
◇
しばらく、二人とも黙ったまま、街を見ていた。
風が、制服の裾を揺らす。
「……先輩は」
私は、フェンスの向こうを見つめたまま口を開いた。
「ゴールドバッジを、自分で望んだんですか」
沈黙。
一秒。二秒。三秒。
先輩は街から視線を外し、自分の手元を見た。
「……選択肢が、それしかなかった時期があったの」
それ以上は、何も言わなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
ただ、その一言が、私の演算回路に静かに刺さったまま、抜けなかった。
選択肢が、それしかなかった。
その言葉が示す文脈を、私はいくつか思い浮かべた。
けれど、どれが正しいかを確かめようとする前に、思考を止めた。
今は、まだ。
◇
風が、少し強くなった。
先輩は相変わらず街を見ながら、ぽつりと言った。
「……この学園は、完璧にできているわ。どこを見ても、正解しかない」
「……そうですね」
「でも」
先輩の視線が、フェンスの向こうへ伸びる。
「完璧な場所に、長くいすぎると、息の仕方を忘れる」
その言葉は、ユウが中庭で言っていた言葉と、どこか重なった。
『この庭にはさ、すべてが揃ってる。でも、だからこそ「余白」がないんだよね』
「……先輩も、息苦しいですか」
私は、思っていた言葉をそのまま口にした。
先輩は答えなかった。
ただ、フェンスの向こうの街を、少しだけ遠い目で見ていた。
その横顔が、一瞬だけ、ゴールドバッジとは全く別の何かに見えた。
鎧の下に隠れた、ひどく静かな、傷のようなもの。
私は、その横顔から視線を外した。
見てはいけないものを見た気がして。
◇
屋上を出る時、先輩が扉を閉めながら静かに言った。
「白石ユウが戻ってくるのは、来週よ」
心臓が、跳ねた。
「……それは、確かな情報ですか」
「管理官候補の権限で見た、内部ログよ。……使い方を誤らなければ、システムの内側は意外と、いろいろ見えるものだから」
先輩はそれだけ言って、廊下を歩き出した。
規則正しい足音。
完璧な姿勢。
ゴールドバッジが、廊下の光を受けて輝いている。
けれど今の私には、そのバッジが鎧に見えた。
何かから自分を守るために、自らその重さを選んだ人間の、静かな鎧。
「……ありがとうございます」
私は、先輩の背中に向かって言った。
先輩は振り返らなかった。
ただ、歩きながら片手をわずかに上げた。
それだけで、十分だった。
◇
廊下に一人残された私は、ポケットの中のガラスの破片を握りしめた。
来週。
その言葉が、胸の奥で静かに光る。
地下ピットの芽は、今日も育っている。
先輩は「選択肢がそれしかなかった」と言った。
その言葉の意味を、私はまだ正確には知らない。
けれど、問いかけること自体を、今の私はもう、無駄だとは思えなかった。
いつか、聞かせてもらえる日が来るかもしれない。
それまでは、この仮説を静かに抱えておく。
──それはきっと、ユウから学んだ時間の使い方だった。




