第9話 トビーのハンカチ
翌朝、私はもう一度、ブランシュ伯爵家の門をくぐった。
家宝が戻った礼を言いたいと、伯爵から監察局に使いが来たのだ。ルシアン様は、その使いを追い返さなかった。
「ちょうどいい。こちらにも、伯爵に見せたいものがある」
客間で待っていた伯爵は、思っていたより小柄な人だった。目の下がたるんで、指先が少し震えている。音楽会の夜、上着の袖口に葡萄酒の染みをつけていた人だ。
伯爵夫人は、その隣に、背筋を伸ばして座っていた。首元の細い鎖の先には、宝石箱の鍵が戻っていた。
「監察官殿。このたびは、家の恥を……」
「礼は要りません」
ルシアン様は、伯爵の言葉をさえぎった。
「代わりに、お嬢様をここへ呼んでいただきたい。手袋を外して」
夫人の扇が、ぴたりと止まった。
*
マルタは、灰色のドレスで客間に入ってきた。
伯爵に言われて、ためらいながら、白い手袋を外した。
赤く腫れた指。関節という関節がひび割れて、ゆうべ私が塗った軟膏の上から、また血が滲んでいた。
伯爵が、椅子から腰を浮かせた。
「……これは、何だ」
誰も答えなかった。
「エレオノーラ。その手は、どうした」
「……洗い物を、しておりました」
マルタは、目を伏せて言った。
「奥様のお言いつけで。毎晩、皆が寝たあとに」
伯爵は、ゆっくりと夫人のほうを向いた。
夫人は、扇を開いて、口元を隠した。
「家の恥を、人目にさらさないようにしただけですわ。体の弱い娘に、何もさせずに置いておくわけにはまいりませんもの。手袋をさせておけば、誰にも見られずに」
「恥は、お前だ」
伯爵の声は、震えていた。けれど、はっきりと、客間じゅうに響いた。
「伯爵家の娘に、夜中に洗い物をさせて、その手を手袋で隠させていたのか。……それを、私は三年も、知らずにいたのか」
伯爵は、自分の震える指先を見下ろした。それから、顔を上げた。
「今日から、エレオノーラには洗い物を一切させるな。それと、ロザリーを、エレオノーラ付きの侍女にする。お前の侍女は、別の者を雇え」
夫人の扇の上で、目が見開かれた。
「旦那様、ロザリーは私の──」
「家宝を盗んだと決めつけて、近衛に突き出そうとした侍女を、まだそばに置くつもりか」
夫人は、何も言い返せなかった。
扇を握る手が、白くなっていた。部屋の隅に控えていた女中たちが、そろって目を伏せた。伯爵家の奥様が、使用人の前で、旦那様に言い負かされるところを、たぶん誰も見たことがなかったのだと思う。
*
客間を出たところで、マルタが私の袖を引いた。
廊下の角の、誰からも見えないところで、マルタは小さな声で言った。
「……ねえさん。洗い物、しなくていいって」
「うん」
「冬になっても、手、割れないかも」
マルタは、自分の手を見て、泣き笑いの顔をした。
それから、真顔に戻った。
「でも、出られたわけじゃない。私は、まだエレオノーラ」
「分かってる」
私は、マルタの手に、軟膏の壺を握らせた。
「今すぐは、連れ出せない。でも、ロザリーがあなたの侍女になった。ロザリーなら、お使いのついでに、監察局まで手紙を運べる。前に、奥様の書状を届けに来てくれたみたいに」
マルタの目が、少しだけ明るくなった。
「それから、約束する」
私は、マルタの目を見た。
「春までに、出す。ピピと一緒に」
マルタは、唇を結んで、頷いた。
それから、軟膏の壺を、胸の前でぎゅっと握りしめた。
*
監察局に戻ると、ルシアン様が一通の書状を机に放った。
「留守のあいだに、ローゼンハイム公爵家から申し出が来ていた」
「公爵家から?」
「アルベルト様の身の回りの物だけを、これから週に一度、監察局の洗濯係に洗わせたいそうだ。毒の件があったから、屋敷の者には触らせたくない、と。公爵夫人の名前で来ている」
ルシアン様は、私の顔を見た。
「監察局は、外の洗濯物は受けない決まりだ」
「……お願いします」
ルシアン様は、しばらく黙っていた。
「理由は聞かない」
それから、戸口のほうを顎で示した。
「もう届いている。籠ひとつだ」
洗濯室の作業台に、小さな籠が置いてあった。
蓋を開けると、少年用のシャツが三枚と、肌着が二枚、きちんと畳んで入っていた。肌着のうちの一枚は、あのつぎはぎの肌着だった。
そして、いちばん上に。
白いハンカチが一枚。
汚れひとつない。洗う必要なんて、どこにもない、真っ白なハンカチ。
鼻を近づけると、かすかに、玉ねぎのにおいがした。
*
すぐに火のしを炭にのせたかった。
けれど、私は手を止めた。
一度目のハンカチが届いたとき、私は浮かんできた字しか見なかった。あの子が書いてくれた、ということしか考えられなかった。
でも、トビーは公爵家の嫡男として、見張られて暮らしている。白い手袋の男が、ハンカチを探しに来たくらいだ。あの子が一人で玉ねぎを手に入れて、一人で洗濯籠のいちばん上にハンカチを置けるとは、思えなかった。
誰かが、手を貸している。
私は、籠の中身を一枚ずつ取り出して、作業台に並べた。
シャツの畳み方が、変わっていた。
袖を内側に折りこんで、裾から三つに折り、最後に襟元を上にして、角を揃えてある。お屋敷の洗濯女の畳み方ではない。赤ん坊のおくるみを畳むときの、やり方だった。灯火の家で、年長の子が赤ん坊の世話をするとき、私もこうやって畳んだ。
ずっと赤ん坊の世話をしてきた人の、手の癖だ。
つぎはぎの肌着を広げると、襟の内側に、一本だけ、白髪まじりの短い髪が絡まっていた。
最後に、籠の底に敷いてあった布巾を持ち上げた。
病人食の盆に敷く、小さな麻の布巾だった。真ん中に、薄い茶色の染みがある。においを嗅ぐ。
玉ねぎだった。
刻んだ玉ねぎを、盆の上でつぶして、汁を絞った跡。
毒を飲まされてから、まだ七日。アルベルト様は、今も病人食のはずだ。盆を運ぶのは、坊ちゃまのいちばん近くにいる人。
赤ん坊を畳むように、シャツを畳む人。
白髪まじりの人。
「……ハンナさん」
声に出すと、胸の奥で、何かがほどけていった。
あの日、牢を出たその足で洗濯場に来てくれた人。私の手を両手で包んで、帰りぎわに振り返って、言った人。
──あの肌着は、捨てないでくださいね。
──雷の夜なんて、寝言で呼ぶんですよ。ねえさん、って。
あれは、ただの世間話ではなかったのだ。
*
夕方、私はルシアン様と一緒に、ローゼンハイム公爵家の裏口を訪ねた。
洗い終えた籠を返しに来た、ということにした。
裏口に出てきたのは、白髪まじりの、小柄な人だった。私の顔を見ると、ほっとしたように目を細めた。
「洗濯係の方。わざわざ、ありがとうございます」
私は、籠を差し出しながら、小さな声で言った。
「ハンカチを、一番上に置いてくださったのは、ハンナさんですね」
ハンナさんの手が、籠の取っ手の上で止まった。
「シャツの畳み方が、おくるみの畳み方でした。それに、盆の布巾の玉ねぎ」
ハンナさんは、しばらく私の顔を見ていた。
それから、ルシアン様のほうを、ちらりと見た。
「この方は、理由を聞かない人です」
私が言うと、ルシアン様は黙って、裏口から一歩離れ、庭のほうを向いた。
ハンナさんは、籠を胸に抱えて、ゆっくりと息を吐いた。
「……あの子が誰か、最初の朝から分かっていましたよ」
穏やかな声だった。
「アルベルト坊ちゃまは、生まれたその日から、私がお育てしました。十一の冬に、領地で熱を出して、そのまま。私は、坊ちゃまの小さな手を握ったまま、お見送りしたんです」
ハンナさんの目が、遠くを見た。
「二年前の春、奥様が、坊ちゃまだと言って、あの子を連れてこられました。背丈も、髪の色も、よく似ていました。でも、私には分かりました。坊ちゃまは、爪を噛んだりなさらなかったから」
爪の先が、ぎざぎざに欠けた手。
灯火の家で、何度叱っても直らなかった癖。
「最初の晩、あの子は、雷が鳴ったら、寝台の中で震えていました。小さくなった肌着を握りしめて、ねえさん、ねえさんって」
ハンナさんは、籠の縁を、指でそっと撫でた。
「私は、坊ちゃまを守れませんでした。だから、この子だけは、と思ったんです。この子が坊ちゃまでいなければならないなら、私はこの子の乳母でいよう、と」
私は、何も言えなかった。
「玉ねぎは、病人食のスープに入れる分を、ひとつ多く盆に乗せただけです。ハンカチは、坊ちゃまに頼まれて、籠のいちばん上に。私は、字は読めませんから、何が書いてあるのかは存じません」
ハンナさんは、少しだけ笑った。
「でも、坊ちゃまが、あなたのことを話すときのお顔で、分かります。あの子の、ねえさんですね」
喉の奥が熱くなって、私は頷くことしかできなかった。
ハンナさんは、私の手を、あの日と同じように両手で包んだ。
それから、声を落とした。
「一つだけ、お伝えしておかなければ。三日前、白い手袋の方が、またお屋敷に見えました。前は門の前でお帰りになったのに、今度は奥様のお客として、中まで。坊ちゃまのお部屋の前で、私に、こう聞かれたんです」
ハンナさんの手に、力がこもった。
「『王宮の洗濯場にいた、灯火の家の娘は、今どこで働いている』と」
*
監察局に戻る馬車の中で、私は膝の上でハンカチを握っていた。
まだ、火のしは当てていなかった。
ルシアン様が、窓の外を見たまま言った。
「白い手袋の男が、君を探している」
「……はい」
「今日から、宿舎まで送る。毎晩だ」
私は、顔を上げた。
「そこまでしていただかなくても」
「次にその男が来たら、俺を呼べと言った。呼ぶ前に連れていかれたら、意味がない」
ルシアン様は、それきり何も言わなかった。
窓に映った横顔は、いつもと同じ、目つきの悪い顔だった。
でも、膝の上で組んだ指が、ずっと強く握られたままだった。
*
その夜、監察局の洗濯室で、私はようやく火のしを炭から上げた。
ルシアン様は、廊下の椅子に座って、書類を読んでいた。送ってくれると言ったから、私の仕事が終わるのを、待っているのだ。
熱い鉄を、ハンカチの上に、ゆっくりと滑らせる。
茶色い字が、浮かんできた。
右に傾いた、下手くそな字。前のハンカチより、少しだけ字が大きくなっていた。
『ねえさんへ
マルタに あえた?
きしがっこうに ハンスと カイが いる。ハンスは レオポルト、カイは ディートリヒって よばれてる。
こうしゃくけは きしがっこうに おかねを だしてるから、このまえ けんぶつに いった。
ハンスは、みんなに いじめられてた。カイは、しらないふりを してた。
あの てぶくろの ひとが、ねえさんの こと きいてた。
ねえさん、ほんとに きをつけて。
トビーより』
私は、ハンカチを胸に押し当てた。
ハンスと、カイ。
ハンスは、泣き虫のトビーよりもっと泣き虫で、いつもカイの背中に隠れていた子。カイは、喧嘩が強くて、口が悪くて、それでもハンスがいじめられると、真っ先に飛んでいった子。
二人とも、騎士学校に。
カイが、ハンスを知らないふりをしている。
あのカイが。
扉が、乱暴に開いた。
廊下の椅子にいたはずのルシアン様が、一枚の紙を手に立っていた。
「たった今、騎士学校から知らせが来た」
いつもより、低い声だった。
「今夜、候補生が一人、宿舎の裏で刺された。命は取りとめたそうだ」
ルシアン様は、紙に目を落とした。
「刺したと疑われて、捕らえられたのは、候補生のレオポルト・ヴァルデン。血のついた剣が、そいつの寝台の下から出てきた」
ハンナ。アルベルトの乳母。字は読めないが、あの子が誰かは、最初の朝から読めていた。
次回、刺された候補生。
見つけた弟妹 2/14
ピピの十二歳の誕生日まで あと140日
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