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第10話 刺された候補生

騎士学校は、王都の東の門を出て、馬車で半刻ほどの丘の上にあった。


馬車の中で、ルシアン様は書類を膝に置いたまま、一枚もめくっていなかった。


「ゆうべは、眠れたか」

「……少しは」

「嘘だな。宿舎の前で別れたあと、君の部屋の窓の灯りは、真夜中を過ぎても消えなかった」


私は、ルシアン様の顔を見た。


宿舎の前で別れたあと、この人は、すぐには帰らなかったのだ。


ルシアン様は、窓の外に目を逸らした。


「白い手袋の男が、どこから見ているか分からん。それだけだ」


それだけ、と言うわりに、その目の下には、私と同じくらい濃い影ができていた。


丘を登りきると、石の塀に囲まれた広い敷地が見えてきた。朝の霧の向こうで、剣を打ち合う音が、乾いた拍子で響いている。


「騎士学校の候補生は、ほとんどが貴族の息子だ」


馬車を降りながら、ルシアン様が言った。


「貴族の跡継ぎが関わる刃傷沙汰は、監察局が調べる決まりになっている。学校長は、内々で済ませたかったようだがな」


門をくぐると、練兵場の脇に、灰色の髭の大男が待っていた。学校長のゲルハルト卿だと、ルシアン様が小声で教えてくれた。


学校長は、ルシアン様に一礼したあと、私を見て眉を寄せた。


「監察官殿。その娘は」

「監察局の洗濯係だ。血のついたものを見せてもらう」


学校長は、何か言いたそうな顔をして、結局、何も言わなかった。


*


刺された候補生は、医務室の寝台にうつぶせになっていた。


ベルトラム・グラウ。伯爵家の三男で、十七歳。背中に巻かれた白い布に、まだ赤いものが滲んでいる。


「宿舎の裏の、井戸の脇だ」


ベルトラムは、顔を枕に埋めたまま言った。


「消灯のあとに水を飲みに出たら、うしろから、いきなり。振り向いたときには、もう走っていく背中しか見えなかった。でも、あの背格好は、レオポルトだ。ひょろっとして、肩が落ちてて」

「顔は見ていないんだな」

「暗かったんだ。でも、あいつ以外に、俺を恨むやつなんていない」


ベルトラムの声には、怯えより先に、苛立ちが混じっていた。


医務室を出たところで、廊下に立っていた候補生が三人、私たちを見てにやりと笑った。


一人が、わざと聞こえるように言った。


「監察局ってのは、洗濯女まで連れてくるのか。領地育ちの腰抜けの犯人には、ちょうどいい相手だな」


ルシアン様が足を止めかけた。


私は、その候補生の襟元に目をやった。


白いシャツの襟の内側に、うっすらと、桃色の粉がついていた。


「その襟の白粉、香りが甘すぎます。王都の歓楽街の、安い白粉の匂いです」


候補生の顔から、笑いが消えた。


「それと、ズボンの裾に、乾いた泥。この敷地の土は、白っぽい砂ですね。その泥は、黒い。塀の外の、川沿いの道の土です」


私は、少しだけ首をかしげた。


「夜に塀の外へ出るのは、校則で禁じられているのではありませんか」


廊下の向こうで、学校長が咳払いをした。


候補生は真っ赤になって、仲間と一緒に、そそくさと練兵場のほうへ逃げていった。


ルシアン様が、横目で私を見た。


「……君は、たまに怖いな」

「汚れが、見えてしまうだけです」


ルシアン様は何も言わなかった。でも、口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。


*


指導教官の部屋に、証拠の品が並べられていた。


一本の剣。柄頭に、ヴァルデン子爵家の紋章が刻まれている。刃の根元から先まで、黒ずんだ血がこびりついていた。


「レオポルト・ヴァルデンの剣だ。あいつの寝台の下から出てきた」


教官が言った。


それから、もう一つ。


濡れたまま畳まれた、白いシャツ。


「宿舎の洗い場のたらいに、これが浸けてあった。レオポルトのシャツだ。袖口に、血を洗い落とそうとした跡がある。剣は隠し、シャツは洗う。分かりやすい男だ」


私は、シャツを手に取った。


右の袖口。手首の内側のあたりに、茶色い染みが、薄く、けれどくっきりと残っていた。


指でこする。落ちない。布の目の奥まで、硬く入りこんでいる。


鼻を近づけた。


血の匂いの下に、かすかに、別の匂いがした。灰汁でも、石鹸でもない。台所で肉を煮たときのような、こもった匂い。


私は、顔を上げずに、袖口を見つめ続けた。


おかしい。


でも、それが何なのか、まだ言葉にならなかった。


「リネット」


ルシアン様が、小声で呼んだ。


「……もう少し、時間をください。このシャツを、監察局へ持って帰りたいんです」


ルシアン様は、教官のほうを向いた。


「証拠の品は、監察局で預かる」


*


レオポルト・ヴァルデンは、宿舎の端の小部屋に閉じこめられていた。


扉の前に、見張りの候補生が一人立っている。


「着替えを届けに来た」


ルシアン様が言うと、見張りは、私が抱えた清潔なシャツを見て、しぶしぶ扉を開けた。


「話すのは、着替えを渡すあいだだけだ」


ルシアン様は扉の外に残り、見張りの肩を叩いて、廊下の端まで一緒に歩いていった。


部屋の中は、薄暗かった。


窓の下の、硬い寝台の上に、痩せた少年が膝を抱えて座っていた。


伸びた手足。落ちた肩。うつむいた顔に、そばかすが散っている。


四年前、十二歳の誕生日の朝に、白い手袋の紳士に手を引かれて門を出ていった子。


泣き虫で、いつもカイの背中に隠れていた子。


私は、シャツを寝台の端に置いて、小さな声で呼んだ。


「ハンス」


少年の肩が、びくりと跳ねた。


ゆっくりと、顔が上がった。


目が合った。


そばかすの頬が、くしゃりと歪んだ。


「……ねえ、さん?」


かすれた声だった。


「なんで。なんで、ねえさんが、ここに」

「洗濯係だから」


ハンスの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。


四年たっても、泣き方は変わっていなかった。声を出さないように唇を噛んで、それでも肩だけが、ひくひくと震える泣き方。


私は、寝台の端に膝をついて、ハンスの手を握った。


剣だこのできた、硬い手だった。


「ハンス。あなたが刺したの?」

「やってない」


ハンスは、首を振った。何度も、何度も。


「ぼく、ベルトラムのことなんか、刺してない。ほんとだよ、ねえさん」

「信じる」


ハンスは、しゃくり上げながら、私の袖をつかんだ。


「ねえさん。トビーは? マルタは? みんな、どうしてるの」

「トビーは、公爵家で元気にしてる。マルタにも、会えた。二人とも、星の肌着を、ずっと大事にしてた」


ハンスの手から、力が抜けた。


「……生きてるんだ。みんな」


その一言で、この子が四年間、何を怖がっていたのか分かった。手紙が来ないのは、みんなもういないからなのではないかと。


「信じる。だから、教えて。刺されたのは、消灯のあとだった。その時間、あなたはどこにいたの」


ハンスの唇が、震えた。


そして、ぎゅっと閉じた。


「……言えない」

「ハンス」

「その時間、ある人と会ってた。でも、その人のことは、言えない」


ハンスは、私の手を、強く握り返した。


「言ったら、その人が、全部なくしちゃう。今の家も、今の名前も、全部」


私は、息をのんだ。


今の家。今の名前。


ハンスが守ろうとしている人も、同じなのだ。誰かの名前で生きている人。


「ぼくは、いいんだ。どうせ、ここでも嫌われてるし。退学になっても、ヴァルデンの家に戻されるだけだから」


退学では、済まない。人を刺したと決まれば、牢だ。この子は、それが分かっていない。


ハンスは、泣きながら、少しだけ笑った。


「でも、あの人は、今の家が、ほんとに好きなんだ。だから、言わない」


この学校に、ハンスと同じように、誰かの名前で生きている子が、もう一人いる。


トビーのハンカチの字が、頭に浮かんだ。カイは、しらないふりを してた。


扉の外で、ルシアン様の咳払いが聞こえた。


時間だ。


私は、ハンスの手を、もう一度だけ握った。


「待ってて。汚れは、嘘をつかない。あなたのシャツが、きっと話してくれる」


*


小部屋を出ると、廊下の向こうから、背の高い候補生が歩いてきた。


広い肩。日に焼けた首。短く刈りこんだ黒髪。


歩き方で、分かった。


肩をいからせて、足を少しだけ外に開いて歩く癖。灯火の家で、喧嘩に勝ったあとのカイは、いつもこうやって廊下を歩いていた。


ディートリヒ。トビーのハンカチに書いてあった、もう一つの名前。


カイ。


カイは、私の前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。


目が合った。


黒い目が、大きく見開かれた。


それから、すっと細くなった。


知らない人を見る目だった。


カイは、何も言わずに、私の横を通り過ぎた。肩が触れそうなほど近くを、一度も振り返らずに。


灯火の家で、ハンスが年上の子三人に囲まれたとき、カイは一人で三人に飛びかかって、鼻血を出しながら最後まで立っていた。泣きじゃくるハンスの頭を乱暴に撫でて、「泣くな、ばか」と言った子だった。


足音が遠ざかっていく。


その先の、教官の部屋の扉が開く音がした。カイの声が、廊下にまで響いてきた。


「指導教官殿。昨夜のことで、申し上げたいことがあります」


ルシアン様が、足を止めた。私も。


カイの声は、はっきりしていた。迷いのない、よく通る声だった。


「昨夜、消灯のあとに、レオポルト・ヴァルデンが宿舎を抜け出して、井戸のほうへ歩いていくのを、私は見ました」


私は、壁に手をついた。


膝から、力が抜けそうだった。


ハンスが、全部をなくさせたくないと言って、名前を言わずにかばった人。


その人が今、扉の向こうで、ハンスを売っていた。

ハンス(16)。今はレオポルト。泣き虫は、四年たっても直っていなかった。

次回、湯で洗った血。

見つけた弟妹 3/14

ピピの十二歳の誕生日まで あと139日


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